ガルシア・マルケス 『悪い時』

 街路は暑さのために唸っているようだった。ヒラルド博士は−空気はいやな感じがするが今日の午後は雨にはならないだろう−という予感につきまとわれながら日陰の歩道を歩いて行った。蝉の鳴き声に港の侘びしさの色はひとしお濃くなったが、牛はすでに移動させられ、流れに運び去られていて、あの腐敗臭はあたりにぽっかりと大きな穴をあけていた。
 電信係がホテルから彼に声をかけた。
「電報をお受け取りになりましたか」
 ヒラルド博士は受け取っていなかった。
「状況、知らせ、事務所、アルコファンという人からです」

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写真 G・ガルシア・マルケスの第三作目になる長編小説(『大佐に手紙は来ない』の次にあたる)。マコンドの近く(?)にある小さな町で夜な夜なはられる中傷のビラによって起こる事件を、町の人々の人間模様を中心に描いてゆく。
 『大佐に手紙は来ない』の次ということだけあって、『落葉』に比べ文章は簡潔平明で読みやすい。・・・んだけど、どうも分かりづらい。それぞれに問題を持つ結構たくさんの人々が一度に出てきて活動をする上に、マルケス特有の時間の移動がところどころで行われるため、筋が完全に混乱してしまうのである。映画でえばいわゆる群像劇の手法である。群像劇をうまく作るのは極めて難しいというのは常識だが、さすがのマルケスでもこの小説はどうもうまく行っていないようだと思う。それぞれの個性が十分に描ききれていない、それぞれの問題も解決されるわけではない・・・。小説としては、それは決して問題とされることではないと思うのだけど、このような群像劇的な作品ではそうもいかない。小説としてのポイントがばらばらにたくさんある上、そのひとつひとつのポイントの焦点が必ずしもしぼりきれていないとなると、小説全体がぼけてしまうというのは当然である。このあとで世に出される『予告された殺人の記録』において、殺人を中心とした半群像劇的な手法を完全に成功させていることを考えると、三作目ではまだ力が及ばなかったというところなのかもしれない。
 正直なところこの小説ではあまり読むべきところがないように思う。『ママ・グランデの葬儀』内の短編集で出てくるようなシチュエーションがところどころにあって、「ん?」と思うようなことはあるんだけど、小説そのものの価値とはあまり関係がないし(ちなみにこの小説では舞台はマコンドではないはずなんだけど、ママ・グランデが出てきたりと・・・混乱している?)。どうしても『百年の孤独』で成功する前の試作、助走のような小説に思えてしまう。順番からいってそれは不当な評価なのだろうけど・・・仕方が無いとも思う。


 これその年もいろいろなことがあったが、十二月は几帳面にやって来るという予告どおり、清澄な空気とともに輝かしい日が現れかけていた。彼にとって、パストールの沈黙がこれほど決定的なものに思えたことはなかった。

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