マルキ・ド・サド 『閨房哲学』

 遊蕩生活の華々しい道を進もうとするならば、諸君もドルマンセのように、徹底的にやらなければいけない。ドルマンセの教えを拳々服膺して、次のことを理解しなければいけない。すなわち、いやしくも男一匹として、このみじめな地球の上に誕生してしまったからには、せいぜい己れの趣味と気まぐれの範囲を拡大し、あらゆるものを快楽のために犠牲にして、辛い人生にいくらかでも薔薇色の彩りを添えようと努力すべきである、と。

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写真 遊び好きのサン・タンジェ婦人と、無類の遊蕩家であるドルマンセが、情熱的なウージェニーに対して放蕩と快楽についての教育を施す。ウージェニーに対する教育という形で、サドの思想・哲学が語られていく。
 サドの思想のエッセンスを集めた教科書的な本である。他の著作でも小説の登場人物たちが突然、戯曲さながらの長広舌でサドの思想を代弁するシーンが良くあるが、その集大成とも言える。
 戯曲というか対話の形で一応ストーリーもあるのだが、思想・哲学が延々と語られる構造であるから、読みづらいのではないか。と、読む前は思っていたのだが、案に相違してかなり読みやすかったと思う。普通の小説の中で登場人物の口を借りて思想がとうとうと語られると、唐突すぎて非常に違和感があるものだが、この本では思想そのものがテーマとされているため、そういうストーリーとのギャップが逆に少ない。その上「教育」の形を取っているだけあって、話もテーマごとにそれなりに区分けされているので、割合すいすいと読んでいくことができるのである。ちなみにこの本にももちろんサド一流の残酷・変態的なシーンはいくつかある(らしい)のだが、出版上の問題でカットされている。無論残念は残念であるが(いまだにそのような制限があるのだろうか?ちょっと信じられないけど)、逆にそういうシーンが無くなったおかげで思想にしっかりと焦点が当たり、すっきりとした本になっているのではないかという気もする。
 肝心の中身の方はというと、言っていることは難しくないのだが、本当にそう思っているのか?と疑ってしまう点が多い。順を追って考えていった結果がサディズムに行き着くのか、それとも思想はサディズムを正当化する為だけの理屈なのか?読んでいくとどうしても「単なる理屈」という感じがしてしまう。一理あるのは確かだが、あまりにも一方的すぎる感がある。
 とはいうもののこの本の価値がそれで低くなるかというと、当然そのようなことは決してない。常識が充満している世の中で、このような考え方もあるのだということを知るだけでもかなりの価値がある(これを読んで犯罪者になりました、というのでは困ったことだが)。なにより18世紀にこれだけ危険な本を、刑務所の中で書き続けたということには驚くばかりである。またサドの思想は、人を痛めつけて気持ち良いという、現代で用いられるところのサディズムにとどまらず、道徳論・宗教論からアナーキズムのようなところまで、かなりの広がりを持っているということもなかなか興味深い。そういう意味でサドを読み解く鍵となる本なのかも知れない。


 すなわち、彼らの言うところによると、我々は感動を受けることを望む。それこそ、快楽にふけるすべての男の目的であり、われわれは最も積極的な手段によって、この感動を受けたいと思う。この点から出発すると、われわれの行動が、われわれに奉仕すべき人間の気に入ろうが入るまいが、そんなことは問題ではない。問題は、ただできるだけ激烈な衝撃によって、われわれの神経の塊まりを揺り動かすことのみである。ところで、疑うべくもないことは、快楽よりも苦痛の方がずっと激しく感動をあたえるということであり、他人の身に生じたこの苦痛の感覚によって、われわれの見に惹起される衝撃は、より以上に力強い震動をあたえるということである。この衝撃はわれわれの内部で、より以上に力強く鳴り響き、より以上に激しく動物精気を循環せしめる。すると動物精気は、動物精気に特有な逆行の運動によって、身体の下の方の部分に方向づけられ、やがてそれが快楽の器官を刺激し、器官をして快楽の準備を整えしめるというわけである。快楽の効果は、女性においては常に当てにならないものである。醜い男や老人が、この効果を生ぜしめるのは非常に困難である。彼らは精力が衰えているから、その身に受ける衝撃も極めて力弱いのである。そういうわけで、彼らはむしろ苦痛を選ぶ。苦痛の効果は確実であり、苦痛の震動はもっと強いからだ。

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