檀一雄 『青春放浪』

 私は心中事件が行われたと云う霊の二階を自分の部屋に占領して奇ッ怪な青年の野望にとりつかれていたようだ。
 文士になりたいだとか、絵描きになりたいだとか、軍人になりたいだとか、とてもそんな器用な、要領のいい夢想ではない。
 例えば禿鷹が、青空の果の旅を思いいたっているような、猛烈な、お話にも何もならない際限の無い野望であった。

- 檀一雄 『青春放浪』 -




写真 学生時代、卒業してからの満州放浪までの青春時代を描いた、自伝小説。
 面白かったです。『火宅の人』も非常に良かったと思うけど、こちらは本当に面白かった。『火宅の人』は始終重苦しい影のようなものが見えかくれする、割合重めの小説なのに対して、こちらは非常に明るくユーモアにあふれた小説になっている。『火宅の人』は小説として非常に優れていると思うが、こちらは読み物として非常に優れていると言えるだろう。
 とにかくこの小説は明るくて楽しい。読んでいて北杜夫のマンボウものをたびたび思い出したくらいである(こんな比較は檀一雄に対して失礼だとは思うが)。『火宅の人』はまさにその名の通り家庭を背負った父親の姿を描いていたため、檀一雄の生き方は何となく破滅的で影を帯びているように感じてしまう。それに対し若くて家庭も無く守るべきものなど何もない青春時代の生き方は、『火宅の人』と同じように破滅的なのに隠惨さが少しも感じられず、非常にすがすがしい印象すら感じられるというのは不思議なものである。また昭和初期の次第に日本が戦争に傾斜していく、見ようによっては相当暗い時代だっただろうという時期を、この小説はまるでユートピアのように描いている。そういう点でも不思議な才能というか、不思議な人だったのだなあと感心してしまう。
 漠然としていて要領を得ない文章になってしまったが、とにかく面白い本である。檀一雄というとあまりメジャーな作家では無い(名前を聞いたことくらいはあると思うけど)のだが、本当に素晴らしい作家だと思う。この小説は檀一雄のとっかかりとして非常に良いと思うので、是非読んでみて欲しい。
 またこの小説の巻末には檀ふみのエッセイ(ほんとの小編だけど)がおまけで付いている。派手さはないが丁寧にすごく良く書けていると思う(失礼な言いぐさだと分かってはいるが本当にそう思う)。というよりおまけにするにはもったいない素晴らしい小編だと思う。血は争えぬなどという陳腐なことを言うつもりはないが、ひどく感心してしまった。こちらも本編に劣らずおすすめしたいと思う。


 それにもかかわらず、私達の暮し向きは一向に楽にはならなかった。信濃屋の番頭が、朝っぱらからカケ取りにやって来て、私達が眠っている腹癒せに、泉水の金魚の腹を木鋏でチョキリチョキリと挟み切っていたこともある。
「おい、貴様。何の真似だ?」
 私達はここぞとばかり怒鳴り出したものだ。信濃屋の番頭はしどろもどろになって、
「兎に角、掛けの方を払って下さいよ。払ってさえ貰えればこんなことになりゃしません」
「掛けと金魚と一体なんの関係があるのかね。馬鹿馬鹿しい」
 と私達は大いに意気まいて、その日だけは兎にも角にも追いかえした。

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