檀一雄 『火宅の人』

 私は銀座の酒場の酒を浴びるように飲んで、禊ぎたいのである。この火宅の夫は、とめどなくちぎれては湧く自分の身勝手な情炎で、我が身を早く焼き尽くしてしまいたいのである。しかし、かりに断頭台に立たせられたとしても、我が身の潔白なぞは保証しない。いつの日にも、自分に吹き募ってくる天然の旅情にだけは、忠実でありたいからだ。
それが破局に向かうことも知っている。
 かりに破局であれ、一家離散であれ、私はグウタラな市民社会の、安穏と、虚偽を、願わないのである。かりに乞食になり、行き倒れたって、私はその一粒の米と、行き倒れた果の、ふりつむ雪の冷たさを、そっとなめてみるだろう。

- 檀一雄 『火宅の人』 -




写真 「最後の無頼派」檀一雄の代表作。自分自身をモデルに放蕩を重ねる「火宅の人」の姿を描く。
 「最後の無頼派」檀一雄の『火宅の人』といえばずい分と前から名前は知っていた。ところが今回初めて本を読んでみて、イメージと内容との違いに随分とびっくりしてしまった。読む前のイメージといえば、放蕩を続ける男の破滅的な物語だと思っていたのだが、まるで逆の実に繊細ともいえるような、細やかな内容と言っていいと思う。なるほど内容として「桂(檀)一雄の破滅的な人生」を取りあげているのに間違いはないのだが、実に丁寧に自分の心情が吐露されている(それは単純な独白だけではなく、行動による表現も含まれている)のである。
 年譜のように行動を羅列し遠目で見てみると単なる異常な男である。少なくとも今の日本の常識では全く推し量ることのできない変人だ。しかしこの小説『火宅の人』からは「変人」という一言の枠の中に押し込むことのできない一人の本当の人間の姿が浮かび上がってくる。変人・わがまま・身勝手という言葉とはむしろ反対の、小心で正直な人間の姿である。いや、わがまま・身勝手というのは反対どころかそのとおりなのかも知れないが、その根底に流れている桂一雄の気持ちは良くわかるし、個人的には共感できるといっても良いと思う。
 この作品は描いている内容的にいわゆる「私小説」と比較されやすいのではないかと思うのだが、そういう点で暴露的・俗悪的(?)なレベルでいうところの「私小説」とは大きな違いがある(まあ正直なところ純粋な「私小説」を読んだことがないので、実は適当な勘でいうだけなのだが)。著者の言葉(解説より)によるが「私小説というみみっちい小説形態を存分に駆使して、それこそロマンよりも大きなロマンにしてみたい」、桂一雄という一人の人間によるもっと「大きなロマン」が見事に描けていると思う。それはやはり単なる暴露的な物語ではなく、人間そのものが丁寧に、しっかりと描かれているからだろう。
 なんだか支離滅裂のようになってしまったが、とにかくこれは実に優れた小説である。「豪放磊落」という小説の外見のイメージとはかけ離れている、という点が非常に面白いとも思う。『火宅の人』というタイトルの持つイメージに対する野次馬的な興味でもいいだろう、ぜひ一度読んでみることをおすすめしたい。


 何はともあれ、生きると云うことは愉快である。或は、愉快に生き抜くと云うこと以外に、格別な人間の道はなさそうだ。かりにそれが惑いであれ、槿花一朝の夢であれ、徒労の人生ほど、私にとって愉快なものはない。花は咲いて、しぼんで、また咲くのである。花はもとの花ではないかも知れないが、それでも、花は、それぞれに、精一杯に咲くではないか。

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