田山花袋 『蒲団・一兵卒』

 悲しい、実に痛切に悲しい。この悲哀は華やかな青春の悲哀でもなく、単に男女の恋の上の悲哀でもなく、人生の最奥に秘んでいるある大きな悲哀だ。行く水の流れ、咲く花の凋落、この自然の底にわだかまれる抵抗すべからざる力に触れては、人間ほどはかない情けないものはない。
旺然として涙は時雄の髭面を伝わった。

- 田山花袋 『蒲団・一兵卒』 -




写真 妻子を持つ中年の作家が若い女弟子にいだく恋情を描く。明治期に文壇を席巻した自然主義小説、いわゆる「私小説」の先駆けとなった作品。
 特に壇一雄の『火宅の人』からの流れというわけではなく、適当な小説が手近になかったので、5、6年前に100円で買って、読まないままになっていた本を掘り出してきて、読んでみた。内容的にはなんというか、普通。文学的には取り立てて取りあげるべきところはないような気がする。ストーリーは全体的に破綻無く構成されており、主人公時雄の内面描写もしっかりしていると思う。とはいうものの、これだ、というようなポイントも特にない、そんな感じの作品である。
 とはいえ、それは今の人間が読んだ感想である。おそらくリアルタイムで読んだ人(生きている人などもうほとんどいないだろうが)にとってはやはりそれなりの衝撃をうけるような内容だったのだろう。文学的価値がどれほどのものなのかは分からないが、「私小説」というスタイルがひとつのジャンルとして確立されるほど次々とでてきたのは、この小説の影響であるのは間違いない。そういう意味で文学的というより文学史的意義が大きい小説である。
 そういう歴史的価値という意味では、小説の中で描かれている明治期の考え方(女性観・恋愛観など)は結構面白かったと思う。「神聖なる霊の恋」だの「肉の恋愛」だの「汚れた関係」だの、今の時代にはとてもまじめな顔では口に出せないような大仰な言葉が、次から次へとでてくる。『蒲団』は明治40年の作だから、今日までまだ100年足らず、『蒲団』の時代から生きている人もいるだろうが、今の文化・風俗(狭い意味ではなくて広い意味の)をどのように見ているのだろう?そう考えると結構興味深い。今から100年後、今の小説も『蒲団』のごとく見られるようになるのだろうか?
 蛇足ながらこの小説、バルザックの『従妹ベッド』にちょっと構図が似ている・・・のだが、まるで中身は反対である。『従妹ベッド』が復讐という重いテーマを使って見事なエンターテイメントにしているのに対し、『蒲団』は何となくぐじゅぐじゅとしたせせこましい小説であるというのも、何となく日本とフランスの文学の対比を見るようで(そう一概にいうことは無論できないのだが)ちょっと面白い。


 性欲と悲哀と絶望とがたちまち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ冷たい汚れたビロードの襟に顔を埋めて泣いた。
 薄暗い一室、戸外には風が吹き暴れていた。

- 田山花袋 『蒲団・一兵卒』 -

→Amazon  


  前へ
   次へ