吉本隆明 『空虚としての主題』

 現在みたいに空虚ということが景観のように作品をおおっている時期には、作品の<意味>は優美さの下風にたつのが常だといえる。優美さに<意味>がとどまれる隅々をさがそうとする試みが先立ってくる。そこでは形式や文体に際限もない完璧さがもとめられてゆく。そういうなかで作品が<意味>へ固執しつづけたとしたら、どんな運命をたどるのだろうか。運命といういい方がおおげさだとすれば、どういう文体、形式と物語、内容をたどるのだろうか。

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写真 昭和五十五年から五十六年にかけて吉本隆明によって書かれた、文芸時評集。
 難しい。正直なところをいえばさっぱり意味が分からなかった。意地で最後まで読み通したが、結局のところなんのことやらさっぱり。
 問題の第一としてこれが「時評」であるということ。月一回の時評ということでその月に刊行された小説を3〜6編ほど取りあげているのだが、知らない人が多い。取りあげられている作家の半分以上は知らない人だし、取りあげられている小説ともなると読んだことがあるのは数編というありさま。取りあげるにあたって、一応論じるポイントとなる箇所を引用してはいるものの、さすがに断片を読んだだけでその全体を把握することは不可能である。無論これは作者ではなく読み手の問題であるが。論じられている作品を一通り読んでからでないと、この本を理解するのは難しいと思う(とはいえこの本で取りあげられている作品を今から全部読むというのは、入手性の上で難しいかもしれないが)。
 もう一つは文章の問題。文章があまりにも難解すぎる。文章に込められている意味の難解さとは別に、文章そのもののわかりにくさが存在しているのである。実は吉本隆明の文章を読むのは初めてなのだが、わざと難しい文章にしているのではないかとすら思うほどである。こんな事を言うのはおこがましい限りだが、もう少し平易な文章で書いてくれれば、もう少しわかりやすかったのだが。
 文庫本だったので、結構気軽な感じで買って読んでみたのだが、とんでもない、相当な知識と理解力と覚悟をもって読まなくてはならない本だと思う。とてもじゃないが、こんな難しい本は今の自分には読みこなすことはできない、そんな感じの本だった。もう十年もしたらもう一度チャレンジしてみるかもしれない。


 わずか二十年も前には文学の言葉は、少なくとも表層では、自由な個々の作家の恣意的な想像力の算出だったのではなかろうか。それが現在ではいつの間にか、社会的に創出されたイメージの様式のぶ厚い、とてものことに簡単には逃れられそうもない大規模な層の囲いのなかにとりこまれてしまっている。よほど文学の言葉の現在にうとい老大家でないかぎり、文学作品が、あるときある恣意的な着想のもとに、個々の作家が自在に言葉を紡ぎ出せるものだとは信じてはいまい。信じているふりをできても、すぐに足もとに不安が兆すのを熟知しているはずだ。

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