吉行淳之介編 『文章読本』

 先ず、「雨が降っていた。」と書く。或いは「隣の娘が泣いている。」と書く。坐ったその瞬間の、自分の身の廻りのことをスケッチする。何でもスケッチする。正確にスケッチする。それから、そのあとで、それらの具象的なことがらを抽象して、ある結果を抽き出して書く。その順序で、凡てのことを書く。随筆になったり、小説になったりする。書くことは人によってそれぞれに違うが、先ず、最初は凡ての事柄のスケッチ、凡ての出来事のスケッチ、凡ての情念のスケッチをする。その結果が、人によって、天地雲泥の差があるとは、何と言う面白いことか。

- 吉行淳之介編 『文章読本』 より宇野千代 『文章を書くコツ』 -




写真 文章読本の元祖谷崎潤一郎から川端康成、三島由紀夫、丸谷才一まで二十人の錚々たる作家の文章についての短文を集めた文集。
 文章読本というと「いかにして文章を書くか」という本であると思いがちであるが、この本はそうではない。それぞれ文章について書いているのは確かだが、内容はてんでんバラバラ、章ごとに話があちらに飛び、こちらに飛び、やっぱり戻ってきて、という感じである(そこまでひどくはないか)。では何が文章読本であるかというと、書いている作家およびその文章そのものだと思う。
 とにかくどれも文章がうまい(正直なところを言えばどうかなと思う作家もいたが、好みの問題だと思う)。谷崎潤一郎や井伏鱒二、吉行淳之介は言うに及ばず、詩人というイメージが強い萩原朔太郎や何となくかたいイメージのある澁澤龍彦もかなりうまい、面白い文章を書いているのにはちょっと驚いた。
 なにか古いような言い種になってしまうが、文章というのはやっぱり理屈ではなくて感覚で覚えるもの、良い文章をたくさん読むのが一番であるという気がしてしまう。この文章読本は内容ではなく、二十人の作家のそれぞれの文章を読むということがポイントなのだろう。そしてそういう点では十分に成功しており、とても興味深い本だと思う。
 ちなみに本当の「文章の書き方」の本としては本田勝一の『日本語の作文技術』がおすすめ。こちらは『文章読本』とは違い「わかりやすい文章を書くための技術」に的を絞ってあり、非常にわかりやすくて勉強になる。本田勝一自身はいろいろと言われることも多い人みたいだけど、さすがに一流の新聞記者という感じがする。こちらもおすすめです。


 散文の訓練とは、一つには詩を殺すことによって成立する。私は二十代の半ばから、ひたすら詩を殺すことを心がけてきた人間である。だからといって、私の内部にポエジーが枯渇しているということにはならないだろう。私は、私の内部からあふれ出ようとしている安っぽいポエジーに対して、いつも警戒の目を光らせている。私の警戒の網の目をくぐって、紙の上に滲み出してきたポエジーがあったとすれば、それこそ本物のポエジーだろう。

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