セルバンテス 『ドン・キホーテ 正編』

「ああ、後の世に、わしの名高い事蹟の実録が現れるとき、その筆をとる賢人は、かくも朝まだきの初陣を叙して、こう誌すであろうことを、疑う者があろうか。『輝く紅毛の大日尊、はろばろと果てしもなき大地のおもてに、うるわしき黄金の髪の幾千筋を、敷きわたしたる時しもあれ、妬み深き良人ティトンを柔布のふすまに残しつつ、ラ・マンチャの地平の戸口窓口に立ちあらわれて、生きとし生けるものにおもてをばみせたもう薔薇なす曙女神を迎えんと、にしき羽の百千の小鳥、箜篌のねの囀りをもて、うつくしく妙なる調べを奏でそめし折しもあれ、名にしおう騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャは心もゆるむ羽根のしとねを蹶って立ち、名馬ロシナンテにうちまたがりて、人も知るモンティエールの古りにし野をぞ打たせける』と。」

実際に、郷士はその野を進んでいた。で、なおもこう言ったものだ。「そうじゃ、わしの赫々たる勲功は、これを後の世へ残すため、青銅にも鋳、大理石にも刻み、絵板にもかいて然るべきものだが、その勲功の公けになるときこそ、めでたき時代、幸ある世紀というべきじゃ。おお、賢き幻術師、なんじがだれであるかは問わぬが、奇しくもすぐれたわが伝記の著者たらんとするなんじに頼んでおこう。この善良なロシナンテは、わしが歩む道という道、わしがおこなう業という業と切っても切れぬ同伴じゃ。このことを忘れないでもらいたいて。」

それからまた、しんじつ恋をなやむ人でもあるように、こう言った。

「おお、ドゥルシネーア姫、この囚われの胸のあるじよ、御身の美しさに近づくを許したまわぬつれなさもて、それがしを逐い、それがしを咎めたもうことこそ、堪えがたき苦しみに候え。せめては、姫よ、御身ゆえにかくもわりなき思いをすなるこのやっこのこころばし忘れたもうな。」

こんなふうに、まだいろいろと、ばかばかしいことを述べ立てたが、いずれも例の物語に学んだもので、できるかぎりその用語をまねていたのだ。そうしたわけで、ゆっくりゆっくり歩いていたし、太陽がぐんぐん登ってかんかん照りつけだしたし、郷士にまだ脳みそが残っていたとしても、とけてしまうに充分だと思えた。

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写真 騎士道物語を読み過ぎて頭の変になった男、自ら騎士となり従士サンチョ・パンサをつれて遍歴の旅に出る。風車を竜と思いこみ戦いに挑むエピソードなど、誰でも知っている世界的な名作。

誰でも知っている、でもちゃんと読んだことがある人はかなり少ないであろう名作だが、自分もちゃんと読んだのは今回初めてである。

まず第一に、面白い。文学的価値云々というのは全く抜きにして面白い。実に笑える。400年前に書かれた作品のユーモアが今に通じるというのはすごいことだと思う。まあドリフ的どたばたがおおく、そういう笑いは国境も時間も関係ないのかも知れないが。無論単なるどたばた劇だけでないということは言うまでもない。

第二に人物描写が素晴らしい。作品『ドン・キホーテ』のかなめはドン・キホーテとサンチョ・パンサの性格の創造にあるというのが一般的な評価らしいが、もうちょっと広い意味での人物描写が実に素晴らしいと思う。大ざっぱにいえばそれぞれの登場人物が実に生き生きと描かれているのである。『ドン・キホーテ』という小説の持つ雰囲気(明るさ)によるところも大きいと思うが、登場人物がみな個性的で魅力的である。ドン・キホーテとサンチョ・パンサの性格分析も確かに興味深いが(特にサンチョ・パンサの「夢見る現実主義者」のような不思議な性格は面白い)、それだけではなくまわりを固める登場人物たちがみな良くできているのがじつにすごい。

もう一つには訳がなかなかうまくできているのに感心した。無論のこと原文は全く見たことなどないのだが、サンチョ・パンサや山羊飼いたちなどの方言、ドン・キホーテのもったいぶった言葉など、非常に良く雰囲気がでているように思う。こういうのはどうしても大げさなばたくさい感じが出てしまいがちではないかと思うが、これはそういうこともなく、良くまとまっているように思う。

ただこの本(岩波文庫)問題なのが、解説が本の一番最初におかれているということ。自分は解説はとばしてまず本編から読み始めたのだが、やはりそうするのがまともな読み方ではないかと思う。解説は全部で80ページに及び、『ドン・キホーテ』の読み方、読まれ方がいろいろと書かれている。それはそれで面白いと思うのだが(特に本編を読み終わったあとは)、本編を読む前に読むのはやはりいただけない。「ただのユーモア小説ではなく・・・」「ドン・キホーテとハムレットを比較すると・・・」などと結構難しいことも書いてあるので、先に読むと無闇に身構えてしまって楽しめるものも楽しめなくなってしまうのではないかと思う。まずは解説無しで一度面白おかしく読んで、解説を読んでもう一度深く読み返してみる(大変だけど)、そんな読み方をおすすめしたい。

まあそれは本編とは特に関わりのないこと。大変な歴史的・文学的価値があるのは確かだが、そう身構えず気軽に楽しんで良いのではないかと思う。とにかくおもしろいのだから。


 「おお、騎士道の花! おめえ様は、棒を一本くらったぎりで、あんなにりっぱな年月の一生をおしめえにしなさっただ。おお、おめえ様一門のほこり! ラ・マンチャ県は言うに及ばず、全世界のほまれと栄え! おめえ様がいなくなったで、世にはわる者がはびこり、どんな悪事も懲らされる心配がねえでがしょう。おお、どこのアレクサンドロスよりも豪勢な殿様! おめえ様は、たった八か月奉公したこのわしに、海がとりまく一ばんいい島をくれっちまいなさったでね。おお、高ぴしゃな者たちにはへりくだり、へりくだる者たちには威勢を見せた、危険の冒し手、恥の忍び手、いわれのねえ恋のやっこ、善人をまねし、悪人をこらし、下等なやつらとたたかった、つまり、遍歴の騎士! と言やあほかに並べることはいらねえだ。」

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