ガルシア・マルケス 『予告された殺人の記録』

 自分が殺される日、サンティアゴ・ナサールは、司教が船で着くのを待つために、朝、五時半に起きた。彼は、やわらかな雨が降るイゲロン樹の森を通り抜ける夢を見た。夢の中では束の間幸せを味わったものの、目が覚めたときは、体中に鳥の糞を浴びた気がした。「あの子は、樹の夢ばかり見てましたよ」と、彼の母親、プラシダ・リネロは、二十七年後、あの忌まわしい月曜日のことをあれこれ想い出しながら、私に言った。「その前の週は、銀紙の飛行機にただひとり乗って、アーモンドの樹の間をすいすい飛ぶ夢を見たんですよ」

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写真 ガルシア・マルケス後期の中編小説。まさに絶品。
 時間、場所、視点を自由自在に操るその構成のテクニックはとにかく驚異的。長編『族長の秋』(もう一つの長編で代表作『百年の孤独』はまだ残念ながら読んでいないんだけど)時間をやたらに行き来する不思議な構成がとられていたんだけど、圧倒的に饒舌なエピソードの中に埋もれていた感がある。それに対しこの小説では、テーマ・事件が一つに固定されているせいもありそんな饒舌さはなく、ただその構成の妙のみが際立っている。
 この小説のあとがきには中上健次が「ウォン・カーウァイの『欲望の翼』以前と以降の作風の違いはプイグの小説とこの『予告された殺人の記録』を読んだからだ」と言っているということがあげられている。正直なところ『欲望の翼』以前のウォン・カーウァイの作品は見たことがないのだが、それ以降の作品とこの小説との関連性を指摘することはできると思う。『欲望の翼』の四人の主人公がそれぞれ関係しあう(群像劇的な)ストーリー展開や、『恋する惑星』における二つのストーリーの交錯、『ブエノスアイレス』の時間を行き来する(少しだけど)展開など・・・。
 でもそういう関連性を考えてみて思うのは、小説と映画は全く違うということ。ウォン・カーウァイの作品の構成力は『予告された殺人の記録』の複雑にして緻密な構成の足元にも及ばない。この小説を映画化した『サンティアゴ・ナサール第三の死』『血祭りの朝』という二本の映画が、聞いたこともないようなマイナーな作品にとどまっているという事からも、映画と小説の間の壁ということがわかると思う。
 念のために言うとこれは決して映画を文学の下としているわけではない。映画には視覚に訴えるという強力なアドバンテージがあり、ウォン・カーウァイもそれは熟知しているんだろう。中上健次の言葉が「『欲望の翼』以降良くなった」という意味かどうかは分からないが、少なくともウォン・カーウァイは映像派として知られているわけであるし。
 とにかくこの『予告された殺人の記録』は小説ならではの、他の方法では表現できないすばらしいテクニックに満ちあふれた作品だと思う。まああまりにもテクニカルすぎて小説を読み慣れない人には、何がなんだかさっぱり、ということにもなりかねないが・・・(少なくとも人の名前と相関関係はしっかりチェックしないとわけが分からなくなりうる)。何はともあれおすすめできる、すばらしい小説だと思う。


 バヤルド・サン・ロマンは、刺繍をしていたほかの女たちが呆気に取られているのもかまわず、一歩進み出ると、鞍袋をミシンの上に置いた。
「さてと」と彼は言った。「やって来たよ」
 彼は着替えの詰まった旅行カバンのほかに、もう一つ同じものを持ってきていた。それには彼女が彼に書き送った、二千通余りの手紙が詰まっていた。手紙は日付の順に束ねられ、色つきのリボンで縛ってあったが、すべて封は切られていなかった。

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