筒井康隆 『虚航船団』

 まずコンパスが登場する。彼は気がくるっていた。針のつけ根がゆるんでいたので完全な円は描けなかったが自分ではそれを完全な円だと信じこんでいた。

- 筒井康隆 『虚航船団』 -




写真 すごい、驚異の奇書。
 人間の笑うべき狂気の縮図である文具船、そして人間たちの悲惨な笑いの縮図である惑星クォールの歴史、その交差によって生まれる恐るべき神話。とにかく、すごい。
 文房具。笑える。そしておそろしい。まあ笑えるのは良しとして、だんだん怖くなってくるのは本当にすごい。いるいる。どこにでもいる。はさみ、赤鉛筆、メモ用紙。でもだんだん内省的になってくるとおそろしい。あるある。たしかにある。自分の中にいくらでもそういう種はある。誇張され戯画化された文房具たちの姿を笑っているうちに、いつしか自分自身を笑っていることに気がつく。
 クォールの歴史にしても同じ。歴史という意味ではある程度引いた立場で見ることはできるのだが、笑っているのは結局自分自身に過ぎないのではないかと思ってしまう。
 神話においてはなかなか難しいところもあると思う。文房具とクォールの歴史に対するレクイエムのようでもあるし、後半は筒井康隆自分自身のパロディでもある。いずれにしろ文房具、鼬族十種と同じ毒々しい笑いに満ちている。
 などとえらそうなことを書いてみるが何よりも重要なのは、この本が、すごく面白いということ。自分が二度読んだことがある本というのはほとんど無い(10冊もないかも)のだが、この本はもうこれで3回目である。本当に面白い。長いせいもあるかもしれないが、読むたびに新鮮に見える。
 残念なのはこれを読んだせいか、他の筒井作品を余り読む気にならないということ(他に読んだことがあるのは『朝のガスパール』くらいだろう)。これだけすごい本を読んでしまうと、他の作品はどうかな?、という不安が出てきてしまう。それに『虚航船団』は筒井康隆の作品の中では異端視されているようで、評価もまちまちと聞く。そう考えると他の作品はこれとは違うタッチなのかな?とも考えてしまうし。まあ気が向いたら読んでみることにする。
 いずれにしろすごい本である。


「ねえ。おまえはいったいこれから何をするつもりなんだい」息子はやっと顔をあげる。母親を見つめるその眼は点いていないランプ玉のようでありまるで何も見ていないかのようだ。「ぼくかい。ぼくなら何もしないお」彼はしばらくしてから鈍重に聞こえる低い声を咽喉の深い底から押し出すようにして答える。「ぼくはこれから夢を見るんだよ」 

- 筒井康隆 『虚航船団』 -

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