サマセット・モーム 『月と六ペンス』

 タヒチへ近づくときほどに、生身の人間が、幻想の黄金郷へ近づくのだという心地になることはありえないであろう。姉妹島のムリアは、魔法の杖による夢幻の織物のように、荒涼たる海面から神秘的にその峨々たる壮麗の姿を立ちのぼらせてくる。のこぎりの歯のような輪郭をしたこの島は、太平洋のモンセラット島だと感じさせ、そこにはポリネシアの騎士たちが、奇妙な儀式によって人間の知ることのできぬ魔界の秘儀を守っているのだと想像させる。距離がちぢまって、美しい山頂の形がますますはっきりと見えだすにつれて、島の麗容が明らかにされてくる。しかし、船がそのそばを走っても、島はその秘密を守りつづけ、闇々として犯しがたく、岩壁を引きしめて、とりつきようもなく傲岸不屈の姿を見せている。珊瑚礁の入口を見つけて近づいて行ったとき、島が忽然と視野から消え去って、目にうつるものは蒼々とした太平洋の寂寥のみであったとしても、驚くにはあたらないであろう。

- サマセット・モーム 『月と六ペンス』 -




写真 有名な本というのはなかなか手が出しづらいものだ。この本もそういう類の本だった。
 そういうときにはやはり良くあることなのだが、読んでみると想像以上に面白いということが多い。世評というのはなかなかたよりになるものだ。この本もまさにそうだった。
 たしかにこの本は面白い。結果的には読み始めて2日間で読み終えてしまった(条件にもよるがそういうことは結構多い)。実に面白い本だと思う。
 ただし何となく、何ともいまいちなところがあるという感想をぬぐいきれないのだ。本当にすごい本が持っている圧倒的な迫力、圧倒的な存在感、圧倒的な影響力が感じられない。ごく正直なところをいうと、なんか良くできた読み物程度という感想を持ってしまった。
 例えば登場人物。皆それぞれすごく個性的に描かれている。のだが、すごく個性的すぎるのか、どうも現実離れしているような感じがしてしまう。主人公のストリクランドも、非常に個性的で、面白いとは思うのだが、変わりすぎているのだ。人間的な部分が少なすぎて単なる変人、創作上の人物じみてしまうのである。途中で重要な役割を果たすディルク・ストラーフェやブランシュにしても同じ。感情移入がしにくいのである(いやな表現であるが)。
 ただし、ここでモームが描こうとしていたくさぐさ(必ずしもストリクランドにおいてだけではない)事はすごく良くわかるし面白いと思う。実によくわかるのだ。ここら辺は現代においても、というよりは現代においてますますその意味を増してくるものなのかなあとも思ってしまった。それともう一つ、こういう本を読むと、作家というのはつくづく因果な商売だなあとも思う。


 ある朝、その貨物船がアレキサンドリアでドックにはいった。彼は甲板から、陽光を浴びたまっ白な市街や波止場の群衆をながめた。みすぼらしいあや織りをきた土人、スーダンから来た黒人、そうぞうしいギリシャ人やイタリア人の群れ、ふちなし帽をかぶったむっつりした顔をしたトルコ人、日光と青い空、などを見ているうち、なにかが彼に起こった。彼にはそれが説明できなかった。雷にうたれたようなものだと彼はいったが、そういういい方にも満足できず、啓示ともいうべきものだったといいなおした。なにかが心の中できゅっと締めつけられたように思われ、とつぜん一つの歓喜、すばらしい解放感が感じられた。ゆったりと安らかな気持になり、たちまち、その場ですぐに、これからの生涯をアレキサンドリアで送ろうと決心した。船を捨てるのにも大して面倒なことはなく、二十四時間たつと、持ち物全部をもって上陸していた。

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