中勘助 『銀の匙』

 天気のいい日には伯母さんはアラビアンナイトの化けものみたいに背中にくっついてる私を背負いだして年よりの足のつづくかぎり気にいりそうなところをつれてあるく。じき裏の路地の奥に蓬莱豆をこしらえる家があって倶梨迦羅紋紋の男たちが犢鼻褌ひとつの向こう鉢巻で唄をうたいながら豆を煎ってたが、そこは鬼みたいな男たちがこわいのと、がらがらいう音が頭の心へひびくのとできらいであった。私はもしそうしたいやなところへつれて行かれればじきにべそをかいてからだをねじくる。そして行きたいほうへ黙って指さしをする。そうすると伯母さんはよく化けものの気もちをのみこんで間違いなく思うほうへつれていってくれた。

- 中勘助 『銀の匙』 -




写真 一生のうちに一冊だけ「自分の本」に出会う、そんなことがあるのかもしれない。それは決して内容だけではなく、出会った状況、タイミング、受けた影響、すべてにおける、一冊の「本」だ。そして自分にとってたぶんそれはこの本だろう。この本は、百万言を費やしても決して語りつくすことのできない、そんな大切な本である。
 百万言を費やしても、と大仰なことを書いているもののとりあえず何か書こうと思って、本を開いてみる。パラパラと本をめくっているうちにあっという間に10分がたっている。やはり書けない。

 そもそもこの本を初めて手にしたのは小学生の時だ。5年だったか6年だったか・・・塾の国語の勉強である。当然のことながら本の内容も価値も小学生にわかるはずもない。辞書をひきながら授業で読んでいったのをおぼえている。
 今でもなぜか辞書のことをおぼえている。子供向けの二色刷でさし絵なども入っている、何よりも今から考えてみると随分と巨大な辞書だった。大きな辞書をかついで塾に行っていたものだ。なぜかあの辞書を思い出すとまずそのにおいを思い出す。辞書を開くといつもその独特のにおいがしたものだった。いまだに忘れられない。
 忘れられないというと辞書で「溜飲が下がる」という言葉を引いたこともそうだ。「溜飲」という言葉は見つかったのだが「溜飲が下がる」という言葉はどうしても見つからない。先生にないといったら先生がやってきてすぐに見つけてくれた。なぜ見つからなかったのだろうか。そしてなぜ今でもそんなことを憶えているのだろう。
 余談になるがその塾の先生は、今から考えてみると本当に良い勉強を教えてくれたと思う。『銀の匙』の他にも随分とたくさんの本を読んだものだ。シートン動物記の『狼王ロボ』と『ぎざミミウサギ』、『春駒のうた』、ゲーテの『魔王』や与謝野晶子の『君死にた給う事なかれ』、島崎藤村の『千曲川旅情の歌』の暗唱もしたし、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』、志賀直哉の『清兵衛と瓢箪』の書写などもした。今思えばやっていたことの少しでも理解できていたかは疑問だが、本当に良い勉強になったと思う。
 塾では時間の制約もあり最後までは読まなかった。半分も行っていなかったのかもしれない。それに正直なところ意味などさっぱりわかりもせず、したがって面白いともおかしいとも思わなかった。

 次に読んだのが確か中学生の頃だ。親の本棚まであさっていろいろな本を読み出していた頃、読む本が無くなり読み捨てていたこの本を再び手に取ったのだと思う。
 その時は本当にびっくりしたものだった。つい数年前意味の分からないつまらぬ本だと思って読んだ本が、実に面白い、素晴らしい本に変わったのである。全く魔法にかけられたかのような思いだった。ただなぜか後編はそれほどでもない、前半に比べればかなり退屈で正直なところ読むのがつらいとまで思ったのを憶えている。

 次は高校生の時である。岩波文庫にはまって、まさに狂ったように本を読み出したそのころのことだ。本棚に置いてあったこの本も岩波文庫であることに気付いたのである。そのころはまさに「岩波にあらずば本にあらず」のような考え方をしていたもので、逆に「岩波ならもう一度読んでみよう」という考えから再度手に取ったのだった。そして本当に「自分の本」になったのはその時だった。中学で面白いと思った前編はさらにその輝きを増し、退屈だったはずの後編も前編に劣らない輝きを見せ始めたのである。本というのは読むときによってその内容が変わるということに気付いたのはこのときであり、またわけが分かるはずも無い小学生時代にこの本に出会ったこと、本を与えてくれた先生に深く感謝をしもした。
 それ以来何年かおきにこの本を読んでいる。たぶんこの本は(そしておそらくこの本だけは)一生読み続けるのだろう。
 どういうわけだか『銀の匙』、中勘助は高校生向けの文学史の本には出てこない。多分中勘助という人がなんとか主義、なんとか派などというはやりすたりからも、文壇そのものをも超越した場所にいた人なのだと思う。それだけに時代を超えた普遍性を持っているのではないかと思う。
 この本では明治初期の神田・山の手の子供時代を描いている。自分も、今では「東京の下町」などといわれる場所に育った人間であるが、その風俗は当然ながら全然違う。しかしながらその子供時代の風景というのは実に相通ずるものが多いのである。確かにおもちゃや遊び場所などは全く違うのであるが、まぎれもなく自分も経験した子供時代、なのだ。そして自分の記憶そのもよりも生き生きと自分の子供時代を描き出してくれている。そんな時代を超えた名篇なのだと思う。
 いろいろと書いてきたとおり個人的な思い入れも多分にある。でも間違いなく万人に読んで欲しい名作であると思う。この本に関してはいくら書いても書ききることはできない。ぜひ一度読んでもらいたい。


 そのほか刀、薙刀、弓、鉄砲など、あらゆる戦道具もそろっていた。伯母さんは私に烏帽子をきせたり、鎧どおしをささせたり、すっかり戦人にしたててから、自分も後ろ鉢巻をし、薙刀をかいこんで、長い廊下の両はじに陣どって戦ごっこをする。したくがととのえば双方真顔になって身構えをしながらそろそろと近づいてゆく。廊下のまんなかで出会うやいなや私が
「四王天か」
と声をかける。敵は
「清正か」
という。そして同音に
「よいとこであったな」
というと同時に
「やあ、たかたかたかたか」
と口で拍子をとりながらしばらくは勝負もみえずきりむすぶ。これは山崎合戦の場で、私は加藤清正、伯母さんは四王天但馬守なのである。そのうち二人は得物をすてて取っ組みあう。大立ち回りのすえ四王天は清正がいいかげんくたびれたところを見はからって
「しまったー」
とさも無念そうにいってばったりと倒れる。それを鼻たかだかと馬乗りになっておさえつけると伯母さんは汗をだらだら流しながら下から
「縄はゆるせ。首切れ」
とどこまでも四王天でくる。そこで清正が脇差をぬいてしわくちゃな首をごしごし切るまねをするのを四王天が顔をしかめてこらえながら目をつぶってぐにゃりと死んだふりをすればひとまず勝負がつくことにきめてあったが、雨の日などには七八ぺんもおんなじことをくりかえして、しまいに四王天がひょろひょろになるまでやらせた。伯母さんは
「まあどもならん どもならん」
と泣き声をだしながらもあきてやめようというまではいつまでもやってくれる。どうかすると伯母さんはあんまり疲れて首を切られてしまってもなかなか起きあがらないことがある。そうすると ほんとに死んだんじゃないかしら と思って気味わるわるゆりおこしてみたりした。 

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