沼正三 『家畜人ヤプー』

「神々の家畜ヤプー種族の選畜なる、セッチン族の希望たる若畜よ。さらば行け!天国星にはいれる日は近いぞ。何を食い何を飲もうと思いわずらうな。神様の御心のままに、与えられたものを食い、飲んで、栄光ある生を楽しめ!忘れるな、セッチンたるのプライドを・・・」

- 沼正三 『家畜人ヤプー』 -




写真 「戦後最大の奇書」、一大マゾヒズム小説。・・・だけど、どうも引っかかるところがある。これって本当に「マゾヒズム」なのか?
 自分は多分マゾヒストではないんで誤解があるのかもしれないが、「被虐嗜好」というだけあって、虐げられることが快感につながるのが「マゾ」なのだろうと思っている。肉便器、肉足台、舌人形、唇人形、膣内童子、畜人馬・・・。これだけ見れば確かにマゾヒズムだろう。むち打たれ、踏みつけられ、排泄物を食らい、・・・・・・、・・・・・・。ところがアンナ・テラスの「チャリティズム」(慈畜主義)から、「アルビニズム」(白神信仰)に進んでいくとどうもおかしくなってくる。「神に対する奉仕」となってしまうと、確かに端から見てマゾヒスティックな行為にしても、当事者たるヤプーにとっては「神聖な仕事」である。そこには「虐げられること、おとしめられることによって得られる快感」というのはないんではないだろうか?それは単なる価値観の転換に過ぎないのでは?
 というのが小説に対する感想。ところが書いている人間にとってはこれは違うのだろう。「チャリティズム」「アルビニズム」はマゾヒズムのスパイスのようなものかもしれない。ヤプー意識を持ったヤプーにとってはアルビニズムはマゾヒズムをうち消す「救い」なのだが、人間意識を持ったヤプー(希望者)・・・作者や『本当の』読者にとっては、マゾヒスティックな快感を促進するものなのだろう。つまり自分は喜んでその「屈辱的な」行為を行っているのに、慈しみの心をかけてくれる、憐れんでくれる、しかも神として崇めよという形で救いの手を差しのべてくれている、というさらにおとしめられるような屈辱感・・・
 この分析は正しいのだろうか?もし正しいとしたら俺はマゾヒストなんじゃないか?
 と、読んだ人それぞれが好き勝手なごたくを並べられるというところがこの小説の奇妙なところじゃないかと思う。今回読んだのは5冊組の文庫版で、各巻に計5個の解説文が載っているのだが、言っていることが実にばらばらなのである。まあ解説だけあって基本的にはみんなほめている、評価しているのだが、ポイントがみんなてんでんばらばら、いろんなことを言っている。個人的にはこの小説の一番面白いところではないかと思う脚注や記紀解釈などについて、読みどころだという人もいるし、これのせいで小説が素人っぽくなっているという人もいる。
 この小説の面白さはそこにあるのかもしれない。内容としてはかなり即物的、科学的、理屈っぽい書き方をしていながら、読む人それぞれにかなり自由なイメージを持たせる。ちょっと言葉であそぶなら、読む人の心を写す鏡のような・・・
 なかなか万人に勧められる本ではない。というよりも「まともな」人にはとてもお勧めできるものではないと思う。読んでもらえるとしたら、(多分)そういう傾向を(「強く」かも)持っている人、あるいはこれをユーモアとして読むことができる人(本当はそういう読み方は正道ではないのかもしれないが)。個人的にはこれはユーモア小説のような読み方をした。ドラえもんの道具みたいに、「次はどんなヤプーが出てくるのかな?」なんて。ある意味想像力が貧困なのかもしれないが。とにかく何かかわったものを見てみたい人、違った世界をのぞいてみたい人、読んでみる価値があるかもしれない。


「・・・其処に仕えることが私の望みです。其処で貴女に奉仕するために私は生まれたんです。さっきパーティーの前、貴女に顔に跨られたとき、広間で貴女のお尻の下に居た時、私は、口で、項で、貴女の体に、其処に、奉仕していると意識できて、幸福でした。」

- 沼正三 『家畜人ヤプー』 -

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