ガルシア・マルケス 『族長の秋』

 週末にハゲタカどもが大統領府のバルコニーに押しかけて、窓という窓の金網をくちばしで食いやぶり、内部によどんでいた空気を翼でひっ掻きまわしたおかげである。全都の市民は月曜日の朝、図体のばかでかい死びとと朽ちた栄華の腐れた臭いを運ぶ、生暖かい穏やかな風によって、何百年にもわたる惰眠から目が覚めた。

- ガルシア・マルケス 『族長の秋』 -




写真 『百年の孤独』から短編集『エレンディラ』を挟んで書かれた長編。南米のある国の独裁者の日常をどす黒いブラックユーモアと饒舌な、多弁な独白体で描いていく。
 この小説の特徴は、とにかくその文体に尽きる。それをどう受け取るかは別としても、代表作『百年の孤独』からこれだけ大きく文体を変えているというのはすごいとしか言いようがない。内容としても『百年の孤独』では見事に構築された百年間を描いているのに対し、こちらは始めも終わりもない時間の感覚の完全に失われた泥沼のごとき時代を描いている。また語り口も『百年の孤独』は完全な三人称で語られるのに対し、こちらは時には誰だかもわからない複数の人間の延々たる一人称の独白でつづられている。
 とまあ『百年の孤独』との、本質的にはどうでもいいような比較はここまでにして、内容のはなし。テーマは『百年の孤独』と同様「孤独」である。ちなみに途中に挟まる『エレンディラ』では孤独の影を感じはするものの、どうもそこにはテーマを置いていないらしいところもまた興味深い。で、この作品ではその饒舌な文体が実にそのテーマにマッチしているとおもう。常にお祭りのような騒ぎの中心で、母親以外は誰も信じることも愛することもできず、また死ぬことすらもできない宿命にとらわれて生きていく、孤独な権力者。権力を握っているのか、権力にとらわれているのかすらわからない。饒舌であればあるほどその中心に存在する、真空地帯のような孤独は深いように感じてしまう。『百年の孤独』は神話を神話らしく書くことで孤独を描き出していたが、こちらは喜劇を荒唐無稽に描くことで、一個人のものではない、神話的・象徴的な孤独を描くことに成功している。
 ただし、この本は読む人によって結構評価が分かれるのではないかと思う。マルケスが好きな人にとってはすごく面白い内容だと思うし(おれはそう思う)、逆に興味のない人にとっては筋がさっぱりとわからずとても読み切れる代物ではないかも知れない。特に『百年の孤独』の時間構成もそうだが、本を読み慣れていない人には非常につらいんじゃないかと思う。サスペンスで盛り上がるわけでもなく、ラストに劇的な展開が待ち受けているわけでもなく。
まあ自分でいうのも何だが、かなり玄人好みの本といえるかもしれない。まずは『百年の孤独』を読むことだ。


 彼はふたたび紙切れを巻いて元の場所に戻しながら、はっきりと記憶しているお祈りの文句をとなえた。空に飛行機を、海に汽船を浮かべたもう我らが父よ、幻術師よ、天界の詩人よ。そうとなえながら、不眠症の病人にふさわしい大足を引きずって、つかのまの夜明けの光、灯台の回転する緑色の夜明けの光のなかをくぐった。消えた海をいたむ風の音を聞いた。神の怠慢のせいで危うく背後から殺られるところだった、結婚式のにぎやかな音楽を聞いた。迷いこんだ一頭の牛を見つけたが、手を出さずに、ただ前に立ちふさがってつぶやいた、牛だ、牛だ。寝室へ引き返すことにして、窓の前を通りかかるたびに、どの窓にも海を失った首都の明りがぼんやりと映えているのを見た。都会の内部から立ち昇ってくる熱い湯気の神秘を、その乱れることのない息遣いの不思議さを思った。足を止めずに、二十三回、その都会の姿を眺めた。胸に手をあてて眠っている民衆という、広漠として究めようのない大海原に対する永遠の不安に、いつものことながら悩まされた。彼を最も愛している者によってさえ嫌悪されていることを悟った。聖者たちの灯によって啓示を受けたような心持ちだった。産婦たちのたどるべき道を正し、瀕死の病人たちの行く手を変えるように、その名が呼ばれるのを感じた。母親のことをあしざまに言う者たちの声によって、記憶が目覚めるのを感じた。

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