中上健次 『鳳仙花』

 紀州の海はきまって三月に入るときらきらと輝き、それが一面に雪をふりまいたように見えた。フサはその三月の海をどの季節の海よりも好きだった。三月は特別な月だった。

- 中上健次 『鳳仙花』 -




写真 紀州に生まれた少女が兄や夫の死、戦争による貧窮の中を生きていく様を描く。
 『千年の愉楽』の文体とは打って変わってこちらは非常に普通のスタイルの小説。読みやすいものの少々物足りない気分になってしまう。もちろん『千年の愉楽』のスタイルは非常に実験的なもので、毎回そのような文体を繰り返すことはできないのは当然なのだが、そうはわかっていてもやはり残念に思ってしまう。飛び抜けた代表作ができると、それ以降どうしてもそれと比べられてしまう、という難しさを感じさせられた。
 内容としては、基本的にはある女性の半生を綴ったもの、なのだが、どちらかというと主人公のフサよりも、彼女を通り過ぎ、影響を与えた四人の男たちの影をより色濃く感じる。また比較になってしまうが、『千年の愉楽』で高貴な穢れた血を持つ若者を描いているのと共通性を感じ、なかなか興味深い。単に女性を直接描くのではなく、その周りに数人の男を配して、そこから女性を描く、というのは何とも中上健次らしく感じられて(といってもまだ三冊目であるが)面白かった。また、直接人物を掘り下げるのではなく、それをとりまく他の人物の影を描くことで、中心の人物を浮き彫りにしていくというのは、いかにも小説らしくて面白い手法だと思う。考えてみると『千年の愉楽』の若者たちやオリュウノオバ、『日輪の翼』のオバたちや若者も、その中心である路地を描くための脇役であるともいえるかもしれない。この小説でも単に中心を路地から一人の女性に変えているだけ、と考えることもできそうである。
 この主人公フサ自身についてだが、解説では「薄幸の女性」と評されていたが、個人的にはそのようには思わなかった。確かに多くの不幸がフサに訪れるのだが、その逆境に負けることなく、自分の手で道を造り、自分の足で進んでいこうとする、強い女性である。そういう点で不幸な女性に、あるいは哀れな女性に見えないのではないかと思う。またおそらく中上健次もそういう女性像を描きたかったのであろう。非常に共感できる人物造型ではないかと思う。(少々強すぎるような気もするが、弱さの裏返しという面もある)
 『千年の愉楽』の世界をあてにしていると少々期待はずれに感じてしまうのだが、それを考えなければとてもまとまった良い小説ではないかと思う。わかりやすい小説を求めている人にはおすすめである。


 一瞬、フサは、十五のフサが汽車の走る方向とは逆に、古座から新宮にむかって走る船の中にいて、今、フサが陸の上から見る海岸を海から見ているかもしれないと思って、そんなことがあり得るはずがないと分かっているのに眼を凝らした。
 なにもかも幻のように思え、フサは、兄、とつぶやいた。髪に挿したあせた目立たない色の和櫛が、髪に触れる吉広の手のような気がして、フサは胸の中で、母さん死んでしもたよ、と言った。海はまばらに立ち並んだ家の間からのぞけ、たとえ、船から兄が見ても、汽車の中のフサを見つけてくれるかどうか分からない。

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