中上健次 『千年の愉楽』

 明け方になって急に家の裏口から夏芙蓉の甘いにおいが入り込んできたので息苦しく、まるで花のにおいに息をとめられるように思ってオリュウノオバは眼をさまし、仏壇の横にしつらえた台に乗せた夫の礼如さんの額に入った写真が微かに白く闇の中に浮きあがっているのをみて、尊い仏様のような人だった礼如さんと夫婦だったことが有り得ない幻だったような気がした。体をよこたえたままその礼如さんの写真を見て手を組んでオリュウノオバは「おおきに、有難うございます」と声にならない声でつぶやき、あらためて家に入ってくる夏芙蓉のにおいをかぎ、自分にも夏芙蓉のような白粉のにおいを立てていた若い時分があったのだと思って一人微笑んだ。

- 中上健次 『千年の愉楽』 -




写真 路地を舞台に高貴な穢れた血を持つ若者たちの生と死を描いた作品。
 まず何よりも作者の世界を構築する力に驚かされ、圧倒される。時代の設定はあるが時代には縛られない、日本の中ではあるが世界のどこでもない、生と死の境をも超えた神話的世界として路地を描いている。かといって荒唐無稽なお伽噺では決してない。独自の世界(ファンタジーや漫画でよくある「舞台設定」ではなく、表現方法や意識、考え方などまで含めたもっと抽象的な「世界」である)を作り出す事が出来る作家自体少ないが、それを出来る作家の中でも、これだけのものを作る力のある人はそうはいないだろうと思う。以前に読んだ『日輪の翼』でも「トレーラーで移動する路地」というイメージに感心させられたが、この作品ではもっと大掛かりな世界を表現している。
 その表現方法も特殊である。路地に生まれる者すべてを最初に抱き上げるオリュウノオバが語り部となって、高貴で澱んだ血を持つ若衆の死を描くのだが、口承をそのまま文字に置き換えたような文章で表現している。一つの文章の中で視点が様々に変わり、普通の文章に慣れていると非常に読みにくいのだが、路地及びそこに生まて死ぬ若衆の物語により神話的に雰囲気を与えている、非常に効果的な文章だと思う。
ちなみにその辺については河出文庫版のおしまいについてくる江藤淳の解説『「路地」と他界 声と文字と文体』に詳しい。本文を読んでいて漠然と感じるその辺の雰囲気を明快に説明していてなかなか興味深い。本文よりも難解な吉本隆明の解説『世界論』(これも河出文庫版に収録)とあわせて読むとより面白いだろう。
 中上健次といえば「路地」であるが、この作品ではその路地の(彼の作品の中での)意味のようなものが分かりやすいのではないかと感じた。「路地」という言葉に秘められた地形、イメージ、歴史のようなものを、この作品を読むとつかみやすいと思う。中上健次を読んでいく上で、まず最初に読んでおくと、後々理解しやすいだろう。また、中上健次という作家が、単に優れた小説を書くという以上の、非凡な力を持った作家だということも分かる。彼の作品を読むのはまだ二冊目だが、この作品は中上健次を読み始めるのに絶好の入り口になると思う。


 裏山の雑木の繁みを風が渡り戸板に当って音を立てているのを耳にするとオリュウノオバはいつもこの狭い井戸のようにぬるんだ路地に冬が来たと知り、路地に子を置いて新天地に出ていった者らの住みついたブェノスアイレスにも冬が来て路地と同じだというゲットウでも、風が葉を吹き散らし舞い上げ、一瞬の幻の黄金の鳥のように日に輝き眩くきらめく葉を嬲るように飛ばしているのだろうと思うのだった。オリュウノオバは眼を閉じ、風の音に耳を傾けてさながら自分の耳が舞い上がった葉のように風にのって遠くどこまでも果てしなく浮いたまま飛んでいくのだと思った。見るもの聴くもの、すべてがうれしかった。雑木の繁みの脇についた道をたどり木もれ陽の射す繁みを抜け切ると路地の山の端に出て、さらにそこをふわふわと霊魂のようになって木の幹がつややかに光ればなんだろうと触れ、草の葉がしなりかさかさと音が立てば廻り込んでみる。それはバッタがぴょんととび乗ったせいだと分かって、霊魂になっても悪戯者のオリュウノオバはひょいと手をのばしてバッタの触角をつかんでやる。風が吹いたわけでもないし他の危害を加える昆虫が来たわけでもないのに触覚に触れるものがあるとバッタは思い、危なかしい事は起こりそうにはないがとりあえずひとまず逃げておこうとぴょんとひと飛びするのを追い、さらに先に行くのだった。そこから朝には茜、昼には翡翠、夕方には葡萄の汁をたらした晴衣の帯のような海まではひと飛びで、田伝いに行って小高い丘から防風に植えた松林までえもいわれぬ美しい木々の緑の中をオリュウノオバは山奥から海に塩をなめに来た一匹の小さな白い獣のように駆け抜けて浜に立ってみて潮風を受け、ひととき霊魂になって老いさらばえ身動きのつかない体から抜け出る事がどんなに楽しいかと思い、霊魂のオリュウノオバは路地の山の中腹で床に臥ったままのオリュウノオバに、
「オリュウよ、よう齢取ったねえ」とつぶやきわらうのだった。「寝てばっかしで、体痛い事ないんこ?」
「痛い事ないよ」
 オリュウノオバは霊魂のオリュウノオバにむかって、いつも床に臥ったままになってから身辺の世話や食事の世話をしてくれる路地の何人もの女らに訊かれて答えるように言って、霊魂のオリュウノオバが風にふわりと舞い、浜伝いに船が一隻引き上げられた方に行くのを見ていまさらながら何もかもが愉快だと思うのだった。オリュウノオバは自由だった。見ようと思えば何もかも見えたし耳にしようと思えば天からの自分を迎えにくる御人らの奏でる楽の音さえもそれがはるか彼方、輪廻の波の向うのものだったとしても聴く事は出来た。
 冬の風が時々裏山の雑木を激しくゆすり嵐のような強さで吹き抜けていく。一瞬、風音の強さにおどろき、それからふと屋根にも板壁にも黄金の光る板壁にも砂粒が当った気がしてオリュウノオバは家の周囲も下に通じる坂道も黄金が降りつもっていると思い、路地の者らが昼日中、何処からともなく吹き寄せた黄金の砂の山を眼にして歓喜の声をあげている姿を思い描いた。正月の餅をつく事も出来るし子供らに晴着を着せてやる事も出来る、いや、それどころかたった今から働く事も要らぬし昼日中から酒を飲もうと思えば出来る。何人もの若衆らが時代時代に応じて三味線をやったり尺八を吹いたりギターを弾いて心ゆくまで歌舞音曲にひたる事も出来る。

- 中上健次 『千年の愉楽』 -

→Amazon  


  前へ
   次へ