井上靖 『しろばんば』

 その頃、と言っても大正四五年のことで、いまから四十数年前のことだが、夕方になると、決まって村の子供たちは口々にしろばんば、しろばんばと叫びながら、家の前の街道をあっちに走ったり、こっちに走ったりしながら、夕闇のたてこめ始めた空間を綿屑でも舞っているように浮游している白い小さい生きものを追いかけて遊んだ。素手でそれを掴み取ろうとして飛び上がったり、ひばの小枝を折ったものを手にして、その葉にしろばんばを引っかけようとして、その小枝を空中に振り廻したりした。しろばんばというのは"白い老婆"ということなのであろう。子供たちはそれがどこからやって来るか知らなかったが、夕方になると、それがどこからともなく現れてくることを、さして不審にも思っていなかった。夕方が来るからしろばんばが出てくるのか、しろばんばが現れてくるので夕方になるのか、そうしたことははっきりとしていなかった。しろばんばは、真っ白というより、ごく微かだが青味を帯んでいた。そして明るいうちは、ただ白く見えたが、夕闇が深くなるにつれて、それは青味を帯んで来るように思えた。

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写真 『夏草冬濤』『北の海』へと続いていく井上靖の自伝的作品。湯が島の自然の中で洪作が成長していく姿を描く。
 読むのは今回でおそらく4度目になると思うが、何度読んでも変わらぬ感動を味わえる作品。今まで読んだ中で最も好きな小説の一つである。
 ただ今回読んでみて一つ驚いたのは、文章が単調で無味に感じられたということ。今までも特に「文章が好き」と思ったことがあるわけではないのだが、このような感想を持ったことは一度も無かったので、正直意外であった。もともと新聞記者であること、新聞小説も多く書いていることでそのような文章になったのだろうか(「文章は正確を以て貴しとしている」という彼の言葉からもそれがうかがえる)。またこれの前に読んでいたのが谷崎源氏だったというのも当然影響しているだろう。
 しかしそんなことはもちろん些細なことにすぎない。少年の世界をこれほど瑞々しく描いた作品は、他にはそうは無いだろう。今から90年も昔の、天城山中の湯が島という小さな村を舞台にしているのだが、不思議なほど自分の子供時代と共通する部分が多い。これは井上靖の子供時代を描いた自伝という枠を超えて、時代も場所も関係のない、普遍的な少年時代を描いた小説に昇華されているように感じた。自分だけでなく、今の子供、北海道でも沖縄でも、もしかしたら外国の子供でも共感できるような、そんな作品なのではないかとも思う。
 この作品を愛するもう一つの理由が、この小説の女主人公と言っても過言ではない、おぬい婆ちゃの存在である。自分も洪作同様お婆ちゃん子として育ったため、こういう人物には特に深い共感と懐かしさを感じる(『銀の匙』の伯母さんや『楡家の人々』のばあやなどもそうである)。「婆ちゃが鼠に引かれるで、あすになったら、早く帰っておいで。」というおぬい婆ちゃの言葉があるが、こういう言葉も自分にはどうにも懐かしく、祖母を思い出してしまう(今はこういう言い方は無くなってしまったかもしれないが)。自伝三部作の中で、とりわけ『しろばんば』を好きなのもおぬい婆さんの存在があるからかもしれない。
 自分としてはそういう読み方をしたのだが、この作品は(もちろんどんな小説でも感想は千差万別だろうが、この作品は特に)読む人ごとに見えてくる情景が違うのではないかと思う。それぞれの個人的な「少年時代」への鍵、だと言っても良いかもしれない。今後、何度も読み直したい作品である。


「ばあちゃは小さい時、蜜柑をあんまり沢山食べて、からだ中黄色くなったことがある」
 おぬい婆さんは蜜柑の皮をむきながらそんなことを話した。入江は依然として静かだった。舟の上の騒擾は時折聞こえてきたが、それが聞こえても、なお入江は静かな感じだった。
「ここにこうしていると睡くなってしまうがな」
 おぬい婆さんは倦かず入江を見降ろしていた。洪作にも玩具のような舟をいっぱい浮かべている入江は、いつまで見ていても倦きることのない眺めであった。二十分程、二人はそこにそうしていて、それから丘を降り、さっき馬車を捨てた駐車場へと戻った。

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