谷崎潤一郎 『源氏物語』

 日がたいそう麗らかなのに、いつからともなく霞み渡っている木々の梢の、花が待ち遠しい中にも、梅が今にも綻びそうにほほえんでいますのが目立って見えます。階隠の下の紅梅の、毎年いち早く花を着けますのが、今年ももう色づいてきました。
 「紅の花ぞあやなくうとまるる
    梅のたちえはなつかしけれど
いやはや、どうも」
と、君はわけもなく溜息をお漏らしになります。こういう女の方々の行く末はどうなりましたことやら。

- 谷崎潤一郎 『源氏物語』 -




写真 谷崎潤一郎による源氏物語の現代語訳。
 原文の持つ独特の雰囲気を忠実に受け継いでいる。その分非常に読みにくい。
 原文では多くの場合主語が省かれている。また主語があったとしても名前を出すことはまず無く(名前がわかるのはごく一部の身分の低い人物のみである)、ほとんどは「殿」「上」「対のおん方」といった表現であり、敬語や文脈から判断する必要がある。他の多くの現代語訳は主語を補っており、読みやすくなっている(らしい)。しかし谷崎訳は原文の持つそういった特徴を活かすという趣旨で主語の追加は行われていないため、読み慣れないと誰が何をしているのかわからなくなることが多い。読み始めてからかなり長い間は苦労させられた。しっかりと源氏の物語を把握したいのであれば、別の人の(より現代語に近い)訳をはじめに読んでおいた方が良いだろう。
 しかし、谷崎の訳による源氏世界の表現力はさすがである。単に文章が美しい、あるいは原文に忠実である、ということではなく、源氏物語の舞台である平安時代の空気や、原文の持つ匂いのようなものまで感じ取ることができる。もちろん原文を読んだわけではないが、読んでいるうちに、まるで自分が原文を読んでいるかのような錯覚さえ覚える。原文を古語の辞書を引きながら読むよりも、谷崎訳を読んだ方がむしろ原文に近い気持ちを味わえるのではないかとすら思ってしまう。
 源氏物語本体の感想だが、物語性よりも何よりも、日本の原点とも言える精神性が非常に興味深かった。(特に女性に強く見られる)謙譲という美徳、あるいは月や花を愛でる風習、夜に楽の音を楽しむ姿。楽の音と言っても、もちろん今想像するような「音楽」ではなく、松林を吹き抜ける風にあわせて「箏のこと」を爪弾き、その音を楽しむ、そんな遊びのことである。他にもたくさんそういった「日本」を発見することができるが、こういういかにも「日本的なもの」がこのころから育まれていたのかということを考えると、時の重みというか、文化の重みというか、厳粛な気持ちにさせられてしまう。そしてまた、何がどうなっても自分が日本人なのだということも再発見させられたような気もした。
 もちろん、物語そのものとしても非常に読み応えがある。王氏の争い、登場する各人物の様々な流転の運命など、単なる読み物としても十分に面白く読むことができる。源氏物語は世界最古の長編文学とも言われるが、これだけ複雑かつ壮大な物語が1000年もの昔に執筆されたというのは信じられないことである。光の生い立ちなどはとても現代的でもあり驚かされる。その巨大な物語の成立過程についてはいろいろな説があるようだが(多作者説や各帖の成立順序にまつわる仮説など)、読み終えてからそれを確認するのもまた興味深いだろう。
 正直なところいきなり谷崎訳に挑戦したのは失敗だったように思う。読み始めのうちは筋や源氏の世界を楽しむ以前に文章を読み下すのに手一杯なところがあった。余裕を持って読めるようになったのは宇治十帖に入ってからくらいかもしれない。これが源氏物語を味わうためにとても優れた訳であることは間違いないが、まずは他の現代語訳で、一度予習をしておいた方が良いだろう。そのほうが筋を追いかける上で苦労をすることもないし、また谷崎訳の長所短所をより深く知ることもできるはずである。
 いずれにせよ、いつか一度は読んでみてほしい作品だと思う。


 女君は明け暮れ陸からお眺めなされてひどく頼りないもののように見ていらしった小さな舟にお乗りになって、川をお渡りになります間も、遠い岸に向かって漕ぎ離れて行くように心細く、ひしと抱きついていますのを、宮は世にも可愛らしいとお思いになります。有明の月が冴え冴えと空にかかって、水の面も曇りなく見えるのですが、「これが橘の小島」と申して、しばらく舟人が棹を突きさしてお舟を留めたあたりを御覧になりますと、大きな岩のような形に、洒落た常盤木がこんもりと繁っています。「あれをご覧なさい。まことにはかない木ですけれども、あの、千年も変わらない緑の色の深いことを」と仰せなされて、
  年ふともかはらんものか橘の
    こじまのさきに契るこころは

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