ガルシア・マルケス 『十二の遍歴の物語』

 セールスマンは食堂のテーブルの上に幾重にも折りたたまれた海図のような図面を広げた。そこにはさまざまな色に塗られた区画と色つきの十字や記号が記されていた。マリア・ドス・プラゼーレスはそれが広大なモンジュイク霊園全体の地図であることを理解し、十月の豪雨の下のマナウスの墓地の光景を遠い恐怖の思いとともに思い出した。名もない墓や、フィレンツェふうのステンドグラスで彩られた冒険者の霊廟の合間で、獏がぱちゃぱちゃと水音をたてている光景だった。まだごく小さな子供だったころのある朝、目が覚めると、アマゾン河は氾濫して吐き気のするような泥沼と化しており、彼女は壊れかけた柩が自宅の中庭にいくつも浮かんで、裂け目からぼろぎれや死人の髪の毛がのぞいているのを目にしたのだった。この記憶こそ、彼女が安らかに眠る場所として、近くて慣れ親しんでいるこぢんまりとしたサン・ヘルバシオ墓地ではなく、モンジュイクの丘を選んだ理由だった。

- ガルシア・マルケス 『十二の遍歴の物語』より『悦楽のマリア』 -




写真 ヨーロッパ各地の都市を舞台においた十二の短編集。
 まず第一に解説を読んで意外に感じたことなのだが、いかにもコロンビア/南米の作家というイメージとは反対にマルケスはコロンビアにはほとんど住んでおらず、その創作活動の多くをヨーロッパで行っているということである。そんな彼のヨーロッパでの遍歴の記憶の中から生まれてきた無数のイメージの中から、形を結んだ十二編の短編を納めている。
 このヨーロッパでの執筆とラテンアメリカを代表する作家としての彼の作風は相反するように思えるが、考えようによってはヨーロッパでの経験こそが彼をラテンアメリカの作家たらしめている、ともいえるだろう。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」、国外に、特に南米から見て非常に異質な世界であるヨーロッパにいるからこそ、南米コロンビアの人間であるというアイデンティティが強く出てくるという面もあると思う(またコロンビアの記憶の多くが子供のころのものによるがゆえに、彼の作品の魔術的な雰囲気が出てくるようにも思える)。そしてこの短編集の共通のテーマもまさに「ヨーロッパのラテンアメリカ人」である。
 この短編群では全て舞台をヨーロッパにおき、時間の長短こそあれヨーロッパに滞在しているラテンアメリカ出の人物を主要な人物に置いている。そして全ての彼の作品の共通テーマである、「孤独」を描きだしている。「ヨーロッパのラテンアメリカ人」という設定であり、描かれる孤独は異質な存在としての孤独感となりそうなものだが、なんとなくそうはならず、今まで彼が描いてきたいくつもの孤独と同質のものように思えるのが不思議である。もしかしたらこの孤独感は彼の考える人間の本質的な孤独=存在への不安なのかもしれない。
 またこの作品でもう一つ特徴的な点として、ヨーロッパを舞台としながらも他の作品と変わることなく、彼の魔術的な世界が展開されているということがあげられる。マルケスにとっての「南米の血」はこの世界につきるのかもしれない。
 このように「ヨーロッパのラテンアメリカ人」というテーマを置きながら、不思議なことに今までのマルケスの作品とあまり変わりのない作品に仕上がっているように思える。これは今回は「ヨーロッパ」という別のアプローチを使っただけで到着地点は変わりがなかった、というしごく当然の結果であると考えることができる。特に今回はヨーロッパを舞台に置くことで、逆にマルケスのアイデンティティである南米を強く表現することに成功していると言って良いだろう。
 ただそう納得できる反面、ヨーロッパを舞台にした今回は、いつもの作品とはもう少し違ったものを見せてもらいたかったという、軽い失望の念も正直なところ感じないではなかった。「舞台がヨーロッパ」という時点で、マルケスの新しい世界が見れるのではないかという期待があったのは確かである。
 作家にとって決して変わらない核を持ち続けるということ、そしてそれを大切にしながらも変わっていくということ、そんな難しさも少し感じた作品でもある。いずれにせよガルシア・マルケスの世界は十分すぎるほど表現されている秀作であると思う。


 彼は別れも告げず、もちろん何の礼を言う必要もなく、ただ、自分の不幸の埋め合わせに誰かを鎖で至急ぶちのめしてやりたいとだけ考えながら、出ていった。病院を後にした時、彼はまったく気づかなかったが、空からは血の跡のついていない雪が、まるで鳩の羽毛のようなやわらかな、けがれのない雪が落ちてきていた。そして彼はやはり気づかなかったが、パリの通りにはよろこびの空気があった。十年ぶりの大雪だったからだ。

- ガルシア・マルケス 『十二の遍歴の物語』より『雪の上に落ちたお前の血の跡』 -


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