吉行淳之介 『やややのはなし』

 車の部品からクランクが消えたのは、東京オリンピックの頃だろう。もう四半世紀も前のことだから、それがどういう品物か知らない人も多いかもしれない。

- 吉行淳之介 『やややのはなし』より『CRANKについて』 -




写真 ややや、と驚いた話から、自作についての話、万年筆など身の回りのものの話に、自身の交友録まで、様々な内容を話題に展開するエッセイ集。
まさにこれこそ作家、と唸らされてしまうような見事なエッセイである。吉行淳之介一流のしゃれた流れるような文章もさることながら、実に様々なテーマの話題を次から次へと提示してくるのには全く圧倒させられてしまう。
 話のテーマは、エッセイというだけのことはあって大ネタがあるわけではなく、ほとんどが日常生活の中の話題である。身の回りのちょっとした道具やちょっとしたニュース、昔のふとした思い出、自分の友達(といっても文壇の人が多いが)などなど。普通の人ならおそらく見逃しているようなことをとりあげている。このような、ちょっとしたことでも記憶し、見返し、掘り下げてみる、そしてまたそれを見事な文章で表現し、読者を唸らせ、また楽しませるという技は、まさに作家ならではのものだと、素直に感心し、また感動させられた。
 しかしながら、「作家だから特別」と一言で片付けてしまうのはやはりもったいないだろう。我々の生活の中でも、ふとした疑問や友人の何気ない一言を記憶の中にとどめておき、時を見て自分なりに咀嚼して、掘り下げてみるという努力はとても重要な作業だと思う。いつも使っている道具の中に違う側面を見いだしたり、見慣れた友人の中に違う一面を見つけたり・・・判で押したように同じ毎日の繰り返し、の中にも小さな変化を発見して楽しむことができるようになるような気がする。
むろんそれにはそれなりの時間と労力が必要とされる。この本のレベルに達するには相当の技術も必要ではある。しかし毎日をそういう意識を持って生活をし、またほんの少しでも一日の出来事を見返す時間を作ることで、生活に幅と余裕ができるのではないかと思う。
 単に読んで「ヘー」とか「なるほどなー」と感心するだけでなく、もう少し生活を楽しむ、もう少し知的で、もう少し創造的な日常を送るための刺激となり、またヒントになるような本である。毎日つまらない、と思っている人は、ぜひこのエッセイで「小説家の目」を体験してほしい。


 記憶を逆行させていくと、幼稚園の頃までは当然思い出せる。私は四月一日の早生れ(四月一日は遅生れとおもっている人もいるけれど)だから、幼稚園入学の日に五歳になっている。さらに、四歳、三歳とさかのぼると、どのあたりまで行くだろう。こういうことは、ほとんどの人が試みてみることだろう。

- 吉行淳之介 『やややのはなし』より『子供の時間』 -

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