中上健次 『日輪の翼』

「のう、わしら何にも欲しもんない、神さんのそばにおったら、ええんや。何にもこの齢になって欲しもんない」サンノオバはそう言って、自分の体にぼうっと浮遊しているような青白い神霊の加護を感じ、こころもち胸をしめつけられるのを感じながら、ボンヤリと、その昔、女郎に出て男衆にのしかかられた苦しさを思い出し、今日を境にして何もかも浄められ、自分がただ神のみを男としてつかえるキヨラカな女に戻った気がし、自分が本来は尊い女人の魂の生れ変りだったのではないかと考える。この上なく尊い御人が、雨戸を蹴やぶり押し入った熊野の乱暴者に汚され、それがもとで神につかえる女人の身から追われ、最後はボロ屑のようになって行き倒れる。女人の霊は山河をうろついていたのだった。どこの山も受け入れてくれず、霊になっても放浪い、最後、どんづまりの熊野にやって来、熊野の一等低い路地の裏山に来る。どこをどうさぐっても木馬引きや皮張りの血しか出て来ない者らの腹にサンノオバとなって宿ったのは、その女人の霊が実のところ、サンノオバ、七十四歳の折りに、結界を成していた路地の裏山が破られ、帰り道を求めてさまよい出ると何百年も何千年も前に予知していたからだった。サンノオバはボンヤリと日が光り、わき立っている外をみつめて考えた。苦しかった、とサンノオバの体の中にいる女人の霊が言わすようにつぶやいた。サンノオバは涙を一滴流した。ミツノオバとヨソノオバが驚いた顔でサンノオバをみ、サンノオバが、女人の霊の苦難の旅と重なった自分の昔、女郎にも出た暮らしを思い出し、こらえかねて顔を悲しみにくしゃくしゃにすると、ミツノオバとヨソノオバについた霊も、共に響きあうように二人も涙を流す。

- 中上健次 『日輪の翼』 -




写真 若者と老婆たちは故郷熊野の路地をあとに、冷凍トレーラーで全国を旅する。
 なんとも不思議な雰囲気のする作品。文章や全体的な構成に結構な難を感じる反面、小説としては非常に面白かったと思う。
 中上健次の作品を読むのは今回が初めてであるが、キーワードが「路地」であると言うことはまあ知っていた(『路地へ』という映画?も公開されていたが)。で、この作品も当然キーワードは「路地」である。再開発による路地の消滅でふるさとを失った若者と老婆が(この表現は非常に主観的なものであり、間違っているような気もする。路地の呪縛が解けた、と言った方が正しいかもしれない)盗み出した冷凍トレーラーで日本各地を旅してまわるわけであるが、路地を出ても全員路地をひきずっている。若者は行く先々で女をあさりまわるのであるが、常にオバ達と巨大なトレーラーをひきずっているし、オバ達はどこへ行っても自分達の路地を作り出し続けている(最後まで自炊でオカイサンを作り続けているのから見ても明らかである)。そういう意味では熊野という土地の呪縛を逃れた「路地」そのものが、日本中の聖地を詣でてまわる(聖地に出逢ってまわる、といった方が正確かもしれない)話と考えられる。そう考えると老婆たちが皇居で昇天したがごとく忽然と姿を消す(ある意味路地の親玉のような東京のど真ん中である)というラストも、非常に分かりやすいと思う。まあ一言でいってしまえば、数百年に及ぶ結界の呪縛から解き放たれた「路地」の浄化の旅、というところかもしれない。
 以上、くり返すが多分に主観的な解釈をもとにした感想である。中上健次の作品は今回が初めてであり、彼の世界観がさっぱりわかっていないため、ぜんぜん見当違いな読み方をしているのではないかという不安がかなりある。特にこの「路地」という存在に対しての解釈がどうもわからない。彼にとっての「路地」は故郷であったのか、彼を縛る存在であったのか。この本を読んでそこらへんが非常に気になった。ぜひ中上健次の他の作品も読んで、そこらへんを知りたいと思う。
 まあそんな難しいことを考えなくても、この作品は十分に面白い。この作者はどうも文体とかに非常に癖があるような気がする(少々読みづらい)のだが、「路地」を含めかなり独特な、興味深い世界観が確立されているような雰囲気を感じた(他の作品も読んでみないとわからないが)。そこらへんが、この本の読みごたえにつながっているのだろう。若干取っ付きにくいところがあると思うが、お勧めの一冊である。


 サンノオバは冷凍トレーラーを見上げ、「オバら、また、天子様のそばに連れてきてもろたよォ」とつぶやき、山から山にかかった天の道を翔んでいまここに至った冷凍トレーラーに礼を言うように、「おおきによ」と言うと、コサノオバも、ミツノオバも、同じ言葉をつぶやく。老婆らは冷凍トレーラーのタイヤを撫ぜ、風を受けて微かに扉が開閉すると、翼を休めた鳥のように荷台を見上げる。

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