遠藤周作 『沈黙』

 昨日も雨でした。もちろん、この雨はやがてやってくる雨期の前ぶれではありません。しかし、一日中、この小屋をとり巻く雑木林に陰鬱な音をたてています。時々、樹々は身震いをして雨滴をおとします。そのたびごとにガルぺと私は板戸の小さな隙間にしがみついて外を覗くのです。

- 遠藤周作 『沈黙』 -




写真 江戸時代、切支丹弾圧下の長崎に潜入した宣教師が捕らえられ棄教するまでを、宣教師の心の動きを中心に描く。
 吉本隆明『空虚としての主題』の中でかなりきびしく批評されていた作品。昔読んで非常に感銘を受けた作品だったため、どんなものであろうかと再度読み返してみた。読んでみて、吉本隆明の指摘している点は非常に良く分かった。とはいうもののやはり「すごい作品である」という感想も変わらなかったと思う。
 吉本隆明が「通俗的である」と指摘している点は二点、遠藤周作のキリスト教理解と、一人称と三人称が混乱した文体である。第一のキリスト教理解については何も言うことが無いと思う。吉本隆明は遠藤周作が描く「キリスト像」は仏教でもなんでも、宗教一般に見られる信の構造と変りがないと指摘している。まあそういえば確かにそうなのかもしれない、と思う。だが、遠藤周作がキリスト教の布教のためにこの小説を書いたというのであればともかく、小説の主題がそこにあるわけではない以上、そこをあまり深く突っ込んでも仕方が無いと思う。(ちなみに吉本隆明がこの「キリスト教理解」について指摘しているのは『沈黙』ではなくむしろ『』。まあどちらも似たようなものであると思うが)
 問題は第二の文体の混乱である。確かにこの小説、視点が三人称に変わる後半部分は、文体の統一感にかけている。ただ吉本隆明が言うように「三人称の文章の中に時々一人称の視点が混じる」のではなく、むしろ「基本的に一人称の視点の文章を三人称を使って書いていて、ところどころに純粋に三人称の文章が挟まる」という混乱のように感じた。いずれにせよ一人称と三人称の混乱というのははっきりと感じた。その「彼」と「私」の位置の混乱=作品の通俗性というのはかなりきびしいようだが、確かにそういう面があるだろうと思う。
 だが、そういう批判を受け入れても、この作品はすごい小説であるとやはりそう思う。とにかく後半の迫力はすごい。事前にそういう指摘を頭に入れて読んでいても、それを忘れて引き込まれてしまうだけの力があると思う。「わたしは『沈黙』や『侍』の緻密で強力な筆力と、周到な資料的な準備とに敬意を表するにやぶさかでない。つまりそれだけでもたいしたことなのだという判断を抱いている。だがその上であえていえば、この作品は致命的に通俗的なものだとかんがえる。」吉本隆明はしきりに「通俗」性にこだわっているが、自分としてはこの筆力だけで十分にこの作品が傑作として成り立っていると思う。むろん「通俗的」で無いにこしたことはないのだが。
 くり返しになるが、この作品はいろいろな指摘事項があってもその迫力は十分に傑作と呼ぶに相応しいものであると思う。ぜひ多くの人に読んで欲しい一冊である。


「お前は彼等より自分が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き揚げられる。苦しみから救われる。それなのにお前は転ぼうとはせぬ。お前は彼等のために教会を裏切ることが恐ろしいからだ。このわしのように教会の汚点となるのが恐ろしいからだ」そこまで怒ったように一気に言ったフェレイラの声が次第に弱くなって、「わしだってそうだった。あの真暗な冷たい夜、わしだって今のお前と同じだった。だが、それが愛の行為か。司祭は基督にならって生きよと言う。もし基督がここにいられたら」
 フェレイラは一瞬、沈黙を守ったが、すぐはっきりと力強く言った。
「たしかに基督は、彼等のために、転んだだろう」

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