チョーサー 『カンタベリー物語』

 太陽の使者なる忙しい雲雀が歌をうたって、まだ明けやらぬ朝に挨拶をかわし、火のごとく燃えるフィーバスが、きらきらと天空に昇ると東雲の空はすべてその光で笑うかのよう。フィーバスは流れる光をもって茂みの中を照らし、木の葉の上にかかる銀の露玉を乾かしています。

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写真 職業も身分もまったく違う二十九人の巡礼がカンタベリー大聖堂へ向かう道すがら、順番に話をして行く。中世イギリスを代表する傑作。
 読むのに非常に時間のかかった作品(三冊の文庫本を読むのに2ヶ月かかった)。別段文章が読みにくいということはなく、内容もそれなりに面白いのだが、時間がかかった。なぜかと考えると、それはこの作品の持つ雰囲気、によるものが大きいのではないかと思う。
 この作品の書かれた14世紀はまさにローマカトリックが政治や文化を支配していたいわゆる「暗黒の中世」のまっただ中(その辺の歴史に関しては素人なので間違っていたらごめんなさい)であり、この作品にも強い影響があらわれているようである。身分の高い、ではない、立派な人物の語る話には、非常に道徳的・倫理的な話が多く、物語の最後には登場人物中最も高潔な人格として描かれている教区司祭の七つの大罪と罪の悔い改めの説教が配置されているし、そのさらにあとには詩人自身の罪の許しを乞う取り消しの文章が続いている。そもそもこの物語の舞台はカンタベリー大聖堂への巡礼の旅である。
 むろんそんなかたい話ばかりでなく、下層階級に人々によって語られる非常に庶民的な、面白い話も多く配されているが(別に道徳的な物語がつまらないといっているわけではない)、やはりそんな中世的な色彩を強く感じ、ちょっと読みにくかったということは言えると思う。
 それとは別に、この作品は芸術志向が非常に強いという点も、固さを感じさせる要因になっているのではないか。「詩人」の作品というだけあって、作品の構成なども非常に理知的で、考えられたものになっている。芸術性が高いということで、逆に取っ付きにくい作品になっているような気がする。
 様々な物語で構成された物語、の同種として『千一夜物語』があるが、『千一夜』とくらべるとそんな雰囲気の違いが良くわかるのではないかと思う。『千一夜』はとにかく自由である。題材も表現方法もまさに自由奔放、想像力の翼を自由自在にあやつっている作品である。それに比するとやはり『カンタベリー』は理知的な分だけ、不自由さを感じてしまう。どちらが良いか、というのは個人の好みの問題であるが、自分としては『千一夜物語』の方が好きである。
 いずれにせよ、中世を代表する大作である。読んで損はないと思う。


 今わたしはこのちょっとした話を聞いたりあるいは読んだりしているすべての人たちにお願いします。もしその中になにか気に入ったものでもありますするならば、それはわが主イエス・キリストの賜物であるとお礼を言って下さるように。キリスト様からすべての知恵もすべての善も生まれるのです。そしてもし気に入らないものが何かありますならば、それはわたしの力の至らないためであって、わたしの意図ではないとお考え下さるようにお願いします。もし力がありましたならば、喜んで、もっと上手にお話したでありましょうに。われわれの書も言っています、「すべて書かれているものはわれらへの教えてのために書かれているのだ」と。それこそがわたしの意図なのです。

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