井伏鱒二 『珍品堂主人』

 見本は盆や碗など足利期の塗物で、いろんな形をしたのが三十種あまりです。それを包みから出して上り框に並べていると、その親爺の女房がお茶にラッキョウを添えて出してくれました。お茶は上等の煎茶でした。うまいなあ、と思いました。ラッキョウは小粒で飴色でした。食ってみて、世にもうまいものがあるものだと思いました。こんなラッキョウは、高級料理屋で三粒も瀬戸の小皿に入れてお通しに出すと、百円はお客から貰えます。この山中温泉場は砂地で乾きのいい地質だから、揃って小粒で繊維のないラッキョウが出来るんです。

- 井伏鱒二 『珍品堂主人』 -




写真 骨董好きの珍品堂が料亭「途上園」にかけた夢と挫折を描く。
井伏鱒二の中編小説の傑作。井伏鱒二というと『山椒魚』や『黒い雨』が代表作と思われがちだが、他にも素晴らしい作品が本当に多い。この作品については全く知らなかったということもあり、改めてそういうことを感じさせられた。
 この作品の特徴はとにかくその文章にある。ともすればどろどろとした暗めの内容になりかねないストーリーを、ひょうひょうとした文章でさらりと描いている。この文章は本当に素晴らしいと思う。特に『カンタベリー物語』で翻訳の文章を長く読んできたこともあり、文章のプロフェッショナルが書く文というのはやはりすごいものだと感心してしまった。『カンタベリー』の文章も決して悪い文章ではなく、分かりやすく読みやすい、訳文としてはなかなかすぐれた文章だったと思うが(総じて岩波文庫の小説は優れた訳文のものが多い)、そういう訳文とは全く違うレベルの文なのである。
 文章の善し悪しについては昔からえんえんとくり返されている議論なので、今さら自分がこの小説の文章についてどうこう言うことは相応しくないだろうが、一言でいえば単に読みやすいとか文章が美しいとかいうレベルではない、スタイルが確立されているということではないかと思う。『珍品堂主人』の文章は基本的に「ですます調」で書かれているのだが、ところどころ「である調」が混じっていたりと、国語的にはあまり正当とはいえない文章である。そのかわり、文章を2行3行読むだけで、作家井伏鱒二の人となりやこの作品の雰囲気・性格が手にとるようにわかるのである。ただ一文一文が美しいとかいうだけではなく、いわゆる文体がしっかりと確立されているということによるものなのだろう。
 これだけ素晴らしい文章芸術を読むと、はたして他の作家、特に現代の作家は本当に「小説」を書いているのだろうか、と疑わしくなってくる。単に筋道の通った文章を並べてストーリーを語るだけにとどまっているのではないだろうか?まあそもそも現代の作品はあまり読む機会がないので、それに関してどうこういう権利はないのだが。そんなふうに文章について考えさせられてしまう、素晴らしい作品である。


 今年の夏の暑さはまた格別です。でも珍品堂は、昨日も一昨日も何か掘出しものはないかと街の骨董屋へ出かけて行きました。例によって、禿頭を隠すためにベレー帽をかぶり、風が吹かないのに風に吹かれているような後姿に見えているのを自分で感じているのでした。先日、丸九さんからの手紙を見て、一年後には伊万里なるものが実質的な相場になると予想して、前祝に飲みすぎて腹を毀したのです。このところ、下痢のために少し衰弱しているのです。

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