井伏鱒二 『鞆ノ津茶会記』

 同好の士、二人または三人四人が代わり番こに、別室に持ち込むか自宅に持ち帰るかして、思ひ思ひの文章で書いてゐる。要するに、茶会の事情が解る一時の記録である。

- 井伏鱒二 『鞆ノ津茶会記』 -




写真 広島鞆ノ津で小早川家の家臣達によって行われた茶会の記録の形をとって、秀吉の台頭から朝鮮出兵、秀吉の死までの世相を描き出して行く。
 この作品の特徴はなんといっても作者の想像力である。茶会の記録という形式で戦国時代の世相を描いて行くのであるが、茶会の記録がフィクションであるのはもちろんのこと、登場人物のほとんどが作者の想像の産物なのである。小説の冒頭で作者自身が、茶会の記録も登場人物も想像であることを書いてはいるのだが、読んでいるうちにだんだんと本当にあったことのように思えてくるのが不思議である。むろん作者の冒頭の言葉が頭にあるので茶会の記録そのものが創作であることはずっと念頭にあるのだが、登場人物や状況などは次第に本当のことのように思えてくる。
 前回の『珍品堂主人』でも書いたがこれはやはり作者の文章力に負うところが大きいのではないかと思う。ただ一文一文の文章の味が特徴的だった『珍品堂主人』に比べ、この作品の良さは文章の構成力にあると思う。茶会の参加人物一人一人の性格や歴史の設定がしっかりとしてあり(まあ当然といえば当然であるが)、茶会の背景や経緯などがしっかりと設定してある。そしてそれを、自然に、ごく普通のことのように文章で綴って行く。そこら辺から作品のリアリティが生まれてくるのである。「文章の構成力」というよりは、しっかりした小説の基礎設定とそれを十分にいかせる文章、がこの作品の特徴であるといった方が良いかもしれない。
 以上を読み返してみると「小説」というものに関して、実に基本的なことを書いているに過ぎないことに気が付き驚いてしまった。そして井伏鱒二のような小説家の作品でも、そういう基本ができていてこそ、作品として成り立つのだということを改めて感じたように思う。少し説教じみた内容であるが、この作品を読んで、そんなことを考えた。


  初めに縁起を祝つて、西條柿の吊柿とかち栗に濃茶が出て、次に濁酒(茶碗酒)。メノハと云はれる石州若芽の酸の物。チヌの刺身。ボラの水炊きにネギを刻んだ酸醤油。茶漬飯。
 茶碗酒が始まると恵瓊長老が名護屋陣中での所見を物語りながら、博多の豪商神屋宗湛の茶会記を披露した。毛筆の写しだが洒落た書体で茶会のことが書いてある。恵瓊長老は、先づ九州の名護屋城中で見た太閤秀吉の茶室について詳しく述べた。誰しも絶句させられさうな黄金づくりの茶室の話である。

- 井伏鱒二 『鞆ノ津茶会記』 -

→Amazon  


  前へ
   次へ