谷崎潤一郎 『盲人物語・春琴抄』

 かぞえたてればくやしいことやうらめしいことはいくらでもござりますけれども、さいしょうどのもいちのかみどのも、もはやあの世へおいでなされ、権現さまさえ御他界あそばされましたこんにちとなりましては、なにごともすぎにしころの夢でござります。

- 谷崎潤一郎 『盲人物語・春琴抄』 -




写真 谷崎潤一郎というと『刺青』や『痴人の愛』といった、一種倒錯的な愛について多くの著作を残している、というイメージがある。そういうことがあってかなくてか、日本を代表する作家でありながら、今まで一冊も読んだことがなかった(まあ概して日本の作家はあまり読まないとも言えるが)。
 で、今回この『盲人物語』を読んだわけであるが(ちなみにこの本も数年前から手元にあったのだが手をつけていなかった)、読んで実に驚いた。
 「大谷崎」とすら呼ばれる作家であるから、後から考えれば驚くようなことではないのだろうが・・・本当にうまい。すごい。その語り口の妙については、ただただ感心するばかりである。解説には「まとまりすぎの感も」ということもちらりと書いてあるが、自分がその辺の歴史に詳しくないせいか(織田信長の妹にして絶世の美女といわれたお市の方についての物語である)そんな感じはしないし、テーマの取り上げ方、まとめ方もすっきりとまとまっているだけで、まとまりすぎということはないと思う。正直、見事というほか無い。

 もう一編『春琴抄』、こちらも『盲人物語』に劣らぬ名編である。こちらは『盲人物語』ほどの明快さはなく、前半部分は物語の展開が見通しづらくて、むしろ冗長にも感じられてしまうのであるが、ラストで一転、劇的に物語がまとまる。暗闇の中を手探りで進んでいるうちに、突如として闇が終わり光に包まれ、全体が見渡せるようになる感じである。ちなみにその展開のきっかけは登場人物が光を失ったことに寄るわけであり、また象徴的である。『盲人物語』とはまた全く違った形で、全くすばらしい出来だと思う。
 最初に「倒錯的な愛情」と書いたが、この二編にもそれが根底に流れている。盲人の、あるいは盲人に対するある意味偶像崇拝的な愛情(憧憬というべきか)であり、また主従関係における愛情である。ちなみにどちらにおいても女性が主、男性が従であるというのも倒錯的といえるだろう。まあそういった倒錯を描いた小説ではないのだが。
 この二編はとにかくすばらしい。すばらしいというほかに言葉が見つからない。それだけである。


 春琴は明治十九年六月上旬より病気になったが病む数日前佐助と二人中前栽に降り愛玩の雲雀の籠を開けて空へ放った照女が見ていると盲人の師弟手を取り合って空を仰ぎ遥かに遠く雲雀の声が落ちてくるのを聞いていた雲雀は頻りに啼きながら高く高く雲間へ這入りいつまでたっても降りて来ない余り長いので二人とも気を揉み一時間以上も待ってみたが遂に籠に戻らなかった。 

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