幸田露伴 『五重塔』

 闇に揉まるる松柏の梢に天魔の叫びものすごくも、人の心の平和を奪へ平和を奪へ、浮世の榮華に誇れる奴らの膽を破れや睡りを攪せや、愚物の胸に血の濤打たせよ、偽物の面の紅き色奪れ、斧持てる者斧を揮へ、矛持てる者矛を揮へ、汝等が鋭き劍は餓えたり汝等劍に食をあたへよ、人の膏血はよき食なり汝等劍に飽まで喰わせよ、飽まで人の膏膩を餌へと、號令きびしく發するや否、猛風一陣どつと起こつて、斧をもつ夜叉矛もてる夜叉餓えたる劍持てる夜叉、皆一齊に暴れ出しぬ。

- 幸田露伴 『五重塔』 -




写真 かれこれ5、6年も暖めてきた、というより手を着けられずに本箱に埋まっていた本。昨今の本不足で遂に手をつけることとなりました。
 この本は高校で習う(無意味な)文学史では必ず出て来るであろうもので、まあ大概の人が名前を聞いたことがあると思う。この本の特徴はその素晴らしい文章にあるとされている。とはいうものの今まで手をつけられずにいた理由も、その文章にある。なにが問題といって、岩波文庫をぱっと開けば、それはすぐにわかる。
 で、その労を押して読み進めてみると・・・素晴らしい。これは本当にすごい。文章そのものについては、感じとしては講談みたいな語り口で、それほど素晴らしいというわけではないと思う。会話中心のテンポの良い文章はなかなかうまいとは思うが。
特筆すべきは何よりも人物の描き方である。各登場人物が実に良く描かれている。役柄が立っているのである。決してひとりたりとも死んだ人物はいないし、それぞれの個性が際立っている。これだけ登場人物を見事に活かしている小説は他にあまりないと思う。
 また名文として非常に名高いラストの嵐のシーン、すばらしい。これは、すごい、の一言に尽きる。すごい、ただそれだけ。
 ここで引用している文章を見れば分かると思うが、実にとっつきづらい本ではある。漢字はほとんど振り仮名をふってあるにしても、ものすごくはじめは辛い。(旧字の小説を呼んだことがなければまず読めないだろうが)しかしその苦労を味わってでも読む価値のある、本当にすばらしい小説である。


 何所から何所まで一寸たりとも人の指揮は決して受けぬ、善いも惡いも一人で背負つて立つ、人の仕事に使はれれば唯正直の手間取りとなつて渡されただけの事するばかり、生意氣な差出口は夢にもすまい、自分が主でも無い癖に自己の葉色を際立てて異った風を誇顏の寄生木は十兵衛の蟲がすかぬ、人の仕事に寄生木となるも厭なら我が仕事に寄生木を容るるも蟲が嫌へば是非がない、和しい源太親方が義理人情を噛み碎いて態態慫慂て下さるは我にも解つてありがたいが、なまじ我の心を生して寄生木あしらひは情無い、十兵衛は馬鹿でものっそりでもよい、寄生木になって榮えるは嫌ぢや、矮小な下草になつて枯れもせう大樹を頼まば肥料にもならうが、ただ寄生木になって高く止まる奴等を日頃いくらも見ては卑しい奴めと心中で蔑視げて居たに、今我が自然親方の情に甘へて其になるのは如何あつても小恥しうてなりきれぬ

- 幸田露伴 『五重塔』 -

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