アナトール・フランス 『神々は渇く』

 この聖堂はパリ裁判所の鉄柵に近い、暗く狭い広場に建っていた。二つの古典様式から成り、逆になった渦形持送りと、焔を吐いている壷とに飾られ、歳月によって陰気なものと化し、人間によって辱められた正面の、宗教的標章は槌で打ちこわされていた。そして戸口の上には、《自由,平等,友愛、然らずんば死》という共和国の標語が黒い文字で記されていた。エヴァリスト・ガムランは身廊の中にはいって行った。

- アナトール・フランス 『神々は渇く』 -




写真 1793年のフランス。革命後の恐怖政治に巻き込まれた若者が、罪なき人々を断罪していく中で人間性を失い、自らも滅んでいく姿を描く。
 ディケンズの『二都物語』の解説の中で、革命を舞台にした「史眼」のある作品、として紹介されていたので、久々に読み返してみた作品。果たしてそれが「史」眼というものなのかはわからないが、作品の雰囲気の大きな差を感じることができた。この作品はとにかく、革命当時のパリの様子(と考えていいのではないかと思う)が非常に強く表現されている。決してバルザックのような微に入り細を穿つような詳細な描写を行っているわけではないのだが、恐怖が人々を支配していたパリの重苦しく暗い雰囲気が強く印象づけられる。表面的な事物の描写だけでなく、登場人物たちの行動や会話からもそのような雰囲気が醸成されているのだろう。実に素晴らしい表現力だと思う。
 ちなみに、対する『二都物語』の方はというと、いかにもディケンズらしいのだが、良い意味でも悪い意味でも大衆演劇的な安っぽさを感じる気がする(決して悪い意味だけではない)。自分が、愛する人間が処刑されるかもしれない、密告されるかもしれない、という表面的な怖さは溢れているのだが、『神々は渇く』のようなわけの分からない、どんよりとした「時代」の恐怖は出ていないと思う。もちろんそれをして優越を判定できるわけではなく、『二都物語』にはその作品なりの良さ、面白さがあることはいうまでもない(どちらが「物語として面白いか」といわれたら『二都物語』をあげたい。『神々は渇く』は「小説的な面白さ」で勝っているが)。
 この作品の意図についてアナトール・フランスは以下のように述べている(岩波文庫版の解説より)。

 私の主人公ガムランは、ほとんど化物のような人物だ。しかし人間は徳の名において正義を行使するにはあまりにも不完全な者であること、されば人生の掟は寛容と仁慈でなければならないことを、わたしは示したかったのだ。

 確かにガムランは自らが信じる正義のために、妹の夫や知合いを含め多くの罪のない人々を断頭台におくった恐るべき人物である。またこの時代に限らず現代に至るまで、それぞれが信じる正義の名の下に多くの犯罪が行われてきたことを思い起こしても、作者の言葉は正しいのだと思う。のだが、正直なところ、ガムランの純粋さに感銘をも受けた。
 処理しきれない程の情報が氾濫し、誰もが信じるものを見失っている、逆に信じるものを持っている人間が変人扱いされるような現代においては、彼のように己の信じるものに従って純粋に生きていくという姿は、うらやましく感じてしまう。無論、その結果は悲劇であったのだが。信じること、疑うこと、その難しさを感じた。「テルミドールの反動」後のパリの様子を対照的に描いているのも、作者にそういう思いがあったのだろうと思う。
 かなり重い作品なのだが、正直なところ意外なほど面白く読めた。高校生の頃に読んだときにはあまり印象に残らなかったのだが、やはり読解力も経験も足りなかったのだろうと少し反省した。とにかく、フランス革命に興味のある人、小説らしい小説を読みたい人にはお勧めしたい作品である。そうでない人は逆に『二都物語』を読むと面白いだろう。


 エロディ、君は他日,証言することができるだろうか、僕は僕の義務に忠実に生きたってことを、僕の心は真直ぐで僕の魂は清純だったってことを、僕には公益を思う以外の情念はなかったってことを、僕は生まれつき感じやすくやさしかったってことを?君はいってくれるだろうか、《あの方は御自分の義務を果たしたのです》と?いやいや、君はそうはいわないだろう。それに、そういってくれとは頼まないよ。僕のことなどは忘れられてしまうがいいんだ!僕の栄光は僕の心の中にあり、恥が僕を取りかこんでいる。君が僕を愛してくれたのなら、僕の名については永遠に沈黙を守っておくれ。

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