高行健 『ある男の聖書』

 おまえは、おまえ自身のために、この本を書いている。この逃亡の書、お前の個人的な聖書を。おまえは、おまえ自身の神であり、使徒でもある。おまえは他人のために自分を捨てることをしないのだから、おまえのために身を捨てることを他人に求めるわけにはいかない。これほど公平なことはないだろう。幸福は誰もが欲している。どうして、すべての幸福がおまえに帰することがあろう?この世の幸福はもともと多くないということを知るべきだ。

- 高行健 『ある男の聖書』 -




写真 作者の自伝的作品。文化大革命の記憶を中心に、過去と現在を織り交ぜながら描く。
 小説の骨格をなしているのは文化大革命であるが、文革をテーマにした作品というと『ワイルド・スワン』や『芙蓉鎮』を読んだ/見たことがある。しかしこの作品はそれらとはだいぶ雰囲気が違っている。『ワイルド・スワン』は作者が(比較的安全な立場である)共産党の高級幹部の娘ということもあって、どちらかというと祝祭的な雰囲気に、また割とジャーナリスティックに、文革の時代が描かれている。『芙蓉鎮』は悲劇ではあるものの「受難の時代のラブストーリー」に重点が置かれている。それに対してこの作品は本当に庶民的な視点から描かれているのが特徴的である。まさに「やらなければ自分がやられる」という嵐の中を、いかに戦い自分の身を守り抜いたか、ということが語られている。単なる歴史的事実ではなく、それを戦い生き抜いた人の生々しい記憶であり、今までおぼろげにしか見えていなかった文革の一面を知ることができたと思う。文革に興味があっても無くても、非常に興味深い作品である。
 だがこの作品の本当の主題は文革の記憶ではなく、むしろ現在の自分(おまえ)にある。
 この作品で非常に特徴的なのが、過去(彼)と現在(おまえ)を人称を変えながら交互に積み上げていくという手法である。この文体は初めはなかなか面白いと思うのだが、読んで行くうちにそれが本当に必要なことなのか疑問がわいてくる。アイデアで勝負するような短い小説ならともかく、長い小説でもあるし、このような物珍しそうな手法で目を引く必要があるのか?と。
しかし最後まで読むとなぜこのような手法を取ったのか納得がいくと思う。交互に語られる過去と現在の時間が進み、最後にそれらの時間が交わったとき、二つの物語が一つになり、一人の人間「おまえ」になる。文革の記憶も、悪政の告発や過去の苦難の告白ではなく、「おまえ」の切り離すことのできない一部であるということがわかるのである。そこに至るまでは少々長いのだが、その価値は十分あるだろう。
 文庫にもなっていないし、ノーベル文学賞を取ったわりに認知度は低いのかもしれないが、文革の記録としても、そうではない普通の小説としても十分に読み応えがある作品だと思う。


 おまえは仏でもないし、三身六面,七十二の化相を持つ菩薩でもない。音楽と数学と仏教は、いずれも無から有を生じるものだ。ことばでは表せない自然界の万物から、抽象的に数の概念を生み出し、抽象的に音階,調子、リズムの組み合わせと変化を生み出し、抽象的に仏や神を生み出し、抽象的に美を生み出した。いずれも自然の状態では手に入らない。おまえの自我も同じく、無から有を生じたものだった。あると言えばあるし、ないと言えばほかと区別がつかなくなってしまう。おまえが努力して作り上げた自我は、本当に独特なものなのか?そもそも、おまえに自我はあるのか?おまえは無限の因果の中で苦しんでいる。だが、その因果はどこにあるのか?因果は煩悩と同じで、おまえが作り出したものだ。もう、自我など作る必要は無い。まして無から有を生じさせ、いわゆるアイデンティティーをさがし求める必要はない。むしろ生命の根源,活気あふれる、いまこのときに戻ったほうがいい。永遠なのはいまこのときだけで、おまえは自分を意識するからこそ存在するのだ。そうでなければ、何ひとつわからなくなってしまう。いまこのときを生き、晩秋の柔らかい日差しを浴びよう!

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