高行健 『霊山』

 薄暗い歩道の方から人声が聞こえてくる。私は不思議に思って近づいて行った。何と、塀に沿って多くの人が、数珠つなぎにすわり込んでいる。腰をかがめてよく見ると、それはすべて老人だった。合わせて数百人はいるだろう。抗議のすわり込みではないらしい。老人たちは談笑したり、歌を歌ったりしていた。一人の老人の膝の上で、調音のずれた胡弓が、かすれた音を出している。膝に布が一枚当てられているので、その老人はむしろ靴の修理屋のように見えた。傍らの老人は塀に寄りかかり、「五更天」という俗謡を口ずさんでいた。宵の口から夜明けまで時間を追って、恋におぼれた娘が心変わりした男を待ち続ける様を歌ったものだ。両わきの老人たちは、すっかり聞き惚れていた。面白いことに、そこには老婆もいた。老人たちはみな肩をすぼめ、背中を丸め、まるで影のようだった。咳の音だけが響いている。だが、その音も紙の人形から出たものかと思われた。低い話し声はまるでうわごと、あるいは独りごとのようだ。

- 高行健 『霊山』 -




写真 癌の宣告を受けた男が「霊山」を求め中国南部をさまよう姿を描く。長江流域の歴史、自然、伝説、民話などを織り交ぜ、「東洋のオデュッセイア」とたたえられた作品。
 章ごとに人称を変化させながら独白に近い形で物語を紡いでいくスタイルは『ある男の聖書』とほぼ同じ。ただし『ある男の聖書』の前の作品(長編第一作)であるせいもあるのか、若干スタイルが定まっていないような感じがした。また「文化大革命」という確固たる物語の核があった『ある男の聖書』に比べ、この作品はやや漠然としていて読みにくい印象も受ける。
 ただ、長江流域を、大した目的もなくゆっくりと流れ続けるこの物語には、このような雰囲気が最も似合っているのかもしれない。落ち着いて、ゆったりとした気持ちで中国の悠久の自然、歴史、文物を味わうのが正しい楽しみ方なのだろう。フランスや北欧などヨーロッパで絶賛されたのも、その辺が評価されてのことなのだろうと思う。
 特に所々に挿入される民話は素晴らしいと思う。現実の民話に取材したものなのか創作なのかはわからない(小説としても小説の中の物語としても)のだが、素朴で力強いものが多い。また同様に挿入されている民謡などもとても面白い。無論これは民俗誌や地誌ではないのだが、この作品の大きな読みどころである。
 ただ小説としては、物語の底に流れる思想については、やはり『ある男の聖書』の方がよりわかりやすいのは確かだろう(それが重要かどうかは別であるが)。これを読んでわかりにくかったら、『ある男の聖書』の方を読んでみると、『霊山』も理解しやすいのではないか思う(特に作者独特の「独白」について)。表裏一体とまではいわないが、この二作品は相通じるところが多い。一冊だけで終わりにせず、両方とも読むべきだと思う。
 正直、かなり取っ付きにくい作品であることは確かである。が、中国などに興味があれば、十分に楽しめるのではないかと思う。ただ、とりあえずよりわかりやすい『ある男の聖書』から入った方が無難かもしれない、とは思った。


 路地の奥にある徐渭の「青藤書屋」は、小さな屋敷だった。数本の藤の古木が蔓を伸ばし、家屋は清潔で明るかった。かつての趣を残しているのだという。こんなに静かな場所にいても、徐渭は狂ってしまった。どうやら、この世は人間のために作られたものではないらしい。それでも、人間は生きていかなければならないのだ。生き長らえ、真の面目を保ち続け、殺されたり狂ったりしないためには、逃亡するしかない。この小都市にも長居は無用だ。私は急いで逃げ出すことにした。
 郊外の会稽山には禹の陵墓があった。歴史上最古の系譜をたどることができる王朝の初代皇帝である。紀元前二十一世紀ごろ、ここで天下を統一し、諸侯を集めて論功行賞をおこなった。
若耶渓の小さな石橋を渡ると、松に覆われた山のふもとに禹陵があった。手前の空地には籾が干してある。晩稲の収穫が終わったようだ。晩秋の陽光はなお暖かく、心地よい眠気を誘う。

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