シュテファン・ツヴァイク 『バルザック』

 彼が剣で始めたことを自分はペンで成しとげよう。

- シュテファン・ツヴァイク 『バルザック』 -




写真 豊富な資料をもとにバルザックの誕生から死までを描いた伝記。
 バルザック云々以前に、まず、本として非常に面白い。バルザックに興味がなくとも、あるいは誰であるか知らなくても、十分に楽しめるであろう作品である。そして間違いなく、バルザックの作品を読んでみたくなると思う。(この作品が面白かったからといってバルザックの小説を面白く読めるかどうかはまた別問題であるが)
 そしてもう一つ重要なのは、伝記として非常に正確であるということである。以前に「司馬遼太郎の作品は『歴史』ではない」と言っている人がいたが、この作品を読んでその言葉に納得することができた。この伝記の中では、バルザックもその他の登場人物たちも一切しゃべらない。あるのは、書簡や小説の引用、出生届や借用書など書類の裏付けのある事実、そしてツヴァイクの想像である。これが本当の「伝記」なのだな、とやっと理解出来た。(むろん司馬遼太郎の作品をそれだけで否定するつもりはない。あれはあれでとても面白いし、勉強になる。考えさせられることも多い。ただ、あくまでも「小説として」であるが)
 一つ難があるとすれば、ツヴァイクの語り口があまりに饒舌すぎる点であろうか。面白いには面白いのだが、あまりにも形容過剰というか、面白おかしく書こうとし過ぎのような気がした。ただ逆に、これこそが「世界で最も面白い自伝作家」ツヴァイクの真骨頂でもあるのだろう。「偉人の伝記」というより、「隣の家のおかしな兄ちゃんの噂話」を聞いているような感覚なのだが、それによって「無味乾燥な資料の上の人物」が生き生きと身近に感じられるのである。(元に戻るが、その印象はあくまでも「ツヴァイクの語り口で生み出されたもの」であるということは留意すべきであろう)
 テーマのバルザックについては、すごいという言葉以外に見つからないというのが感想である。発想や考え方も、借金も、創作に注ぎ込む精力も、常人の想像の範囲をはるかに超えている。今引き続いて『谷間のゆり』を読んでいるのだが、これだけ度外れた人物が、このような繊細な小説を書くというのもまた驚きである。作品そのものだけでも十分素晴らしいが、この伝記でバルザックの素顔を知っておくとさらに楽しめるのは間違いない。
 なんだかんだと書いたが、とにかくこの作品は面白い。バルザックがどうのは別にして、「面白い本だから読む」で良いと思う。とにかくお薦めの面白い伝記である。
 (なお、最初の引用文はバルザックがナポレオンの石膏像に貼付けていたという言葉で、「彼」はもちろんナポレオンのこと。以下の引用文はバルザックの葬儀でヴィクトル・ユゴーが読んだ弔辞である)


 崇高な精神の持主が新らしくあの世の生活をおごそかに始めるとき、誰の眼にも見える天才の翼で長いあいだ群衆の上を舞つていた人が、誰の眼にも見えない別の翼を不意にひろげて未知の世界に矢のように突つこむとき、すべての人の心にはただもう、きびしいまじめな考えしかありません。未知の世界、いや未知ではありません。そう、前に一度べつの不幸に際して申しましたし、これからも倦きもせずに繰返すことでしようが、そう、それは夜ではありません、光です。それは終りではありません、始めです。虚無ではありません、永遠です。ほんとうでしよう、聞いていらつしやる皆さん。かような柩は不死不滅を証明するものであります。

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