マルグリット・デュラス 『愛人』

 思えばわたしの人生はとても早く、手の打ようがなくなってしまった。十八歳の時、もう手の打ちようがなかった。十八歳から二十五歳の間に、わたしの顔は予想もしなかった方向に向かってしまった。十八歳でわたしは年老いた。誰でもそんなふうなのだろうか、尋ねてみたことは一度もない。

- マルグリット・デュラス 『愛人』 -




写真 自らの記憶をもとに戦前のサイゴンでの愛人との性体験や家族の生活などを描いた小説。
 ジャン・ジャック・アノー監督による映画化で一躍有名になった作品(映画自体はまた別の理由で話題になったが)。その頃のイメージからか自伝的小説であると思っていたのだが、そうではないようである。たしかに自分の体験をもとにしてはいるのだが、自らの記憶の中にあるいくつかの映像(イマージュ)から自由に想像と文章を展開させて、小説を作り出している。また、映画はかなり性的な描写が話題になっていたが、本ではさほどそういう面が多くない、というよりほとんどないのもちょっと意外であった。
 この小説の最大の特徴は、その文体である。この、まるで散文詩のような文章なくしてはこの小説は成り立たなかったはずである。その文章を考える上で、この小説の前に読んだのがサドの『ソドム百二十日』だったというのはまさにグッドタイミングであったと思う。
 『愛人』が映画化されただけでなく、デュラス本人も映画を撮っているらしいが、この文章を読んでいて思ったのは、まさに「フランス映画」そのものの言葉の使い方をしている、ということである。フランスの映画は、いかにも「言葉」を大切にする国柄らしく、非常に言葉を慎重に、また大胆に使っている作品が多い。『愛人』は非常に詩的な、また印象的な言葉の使い方をしており、そういう「フランス」らしい雰囲気を、実に良くあらわしている作品だと思う。
 それにたいしてサドの作品は、極度に乾いた雰囲気を持っているのが特徴である。『ソドム百二十日』の感想の中でも引用したが、「おれたちの快楽の単なる玩弄物となり果てた、虫けら同然な者どもよ」というように、人間を単なる「物」として扱ってみたり、
  三月一日以前に虐殺された者・・・10人
  三月一日以降に虐殺された者・・・20人
  生きながらえて帰還した者・・・16人
  合計・・・・・・46人
 狂気の百二十日間の結果を死者と生者の単純な足し算にまとめてみたりと、枚挙にいとまがない。
 この対比は吉行淳之介の『文章読本』のなかの澁澤龍彦(『ソドム百二十日』をはじめとしたサドの著作の翻訳者でもある)の「詩を殺すということ」を思いださせる。極限まで詩を殺し尽くして生まれたのがサドの計算表であり、逆に「メコン河の渡し船」や「狩人の夜」、「並木道の女乞食」、「太平洋の防波堤」といった事実と幻想が入り交じった記憶の中のいくつかの映像から溢れ出てくる文章を、そのまま流れるが如く綴っていったのが『愛人』なのだろう。澁澤龍彦の「詩を殺すこと」に関しては非常に面白い、的を得た考えだと思うのだが、むろんそのまま単純に『愛人』を否定することはできないと思う。「詩を殺」せといっているのは、小説の中に溢れ出そうになる「安っぽいポエジー」に対してである。もともと小説という枠組みを放棄して流れるイメージにペンを任せているような(まさに詩である)この作品は、殺すのではなくむしろ「いかに詩をつかまえるか」ということを考えさせられる。そういう点でサド(あるいは澁澤龍彦)とデュラスの作品は、「殺す」「生かす」という、「詩」に対するスタンスの両極を見ることができる、非常に面白い作品であった。
 またこの非常に詩的な作品をいかに映画化したのかというのも、映画好きとしてはなかなか興味深いものがある。ぜひ今度映画を見てみたいと思っている。
 この作品の文体は非常に好き嫌いが分かれるような気がするが(小説を読みなれていない人には非常に読みづらいと思う)、結構いろいろと考えさせられる面白い作品である。一度目を通して損はないと思う。


 男は女に電話した。ぼくだよ。女は声を聞いただけでわかった。男は言った、あなたの声が聞きたかっただけでした。女は言った、あたしよ、こんにちは。男はおどおどしていた、以前のように怯えていた。

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