宮本輝 『流転の海』

 そこでまた熊吾は、相手が思わず口を閉ざしてしまわざるを得なくなる、彼独特の響きのある、不思議な浸透力を持つ声で、筒井の言葉をさえぎった。

- 宮本輝 『流転の海』 -




写真 敗戦後、闇市の立ち並ぶ大阪を舞台に松坂商会の復興に奔走する松坂熊吾の姿を父と子、夫と妻の視点を中心に描く。
 非常にオーソドックスな雰囲気の作品。話としてはとても面白いと思う。が、どうも小説としての中心がどこにあるのかがいまいちわからなかった。決して松坂熊吾の一代記、伝記的な作品では無い。では父と子との関係を描いているのかというと必ずしもそうでは無いし、父と母というか男と女を描こうとしているわけでも無い。松坂熊吾を中心として物語が展開して来たかと思うと一転、妻・房江の独白で房江の過去がえんえんと語られる下りがある。それだけではなく熊吾の片腕である辻堂や姪の美津子の物語も次々と挿入されるなど、どうも小説の中心が定まらないのである。細かい枝葉の物語は取り払って、ポイントを絞るべきでは無かったかと思う。
 まあそうは言っても本としては十分に面白く読めたと思う。またこの作品は五部までつづく大作の第一部ということでこの一冊だけを読んで評価するというのもあまり良く無いのかもしれない(一応文庫本一冊でまとまっていたので『流転の海』として書くことにしたのだが)。とりあえずまた『地の星』を読んで考えてみたいと思う。


 トンネルに入った。熊吾は、いつぞやの、自分の不思議な顔を思い出した。一筋の血が、目の下から伝い流れていた自分の顔は、トンネルを出ると消え去り、トンネルに入るとあらわれた。

- 宮本輝 『流転の海』 -

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