山川健一 『さよならの挨拶を』

 もういい、沢山だ。ぼくはたったひとつのものを守ろうとして、だがそれが一体なんなのかということはわからないでいた。その得体の知れぬもののために、ぼくはとりかえしのつかないことをしてしまったのかもしれない。だらだらと続く毎日、その昏く長いトンネルを抜ければ眩しい光を浴びることができると漠然と考えていた。だがそれは間違いだと気がついた。何気なく時間を浪費するうちに、さらに地中深くへと穴は進んでいる。方向を見失った。毎日の連続の中で、だからぼくは今日という日を見失った。反復によって与えられるのは決して心の安らぎではない。反復はぼくらをして、再び繰り返させるのだ。昏いトンネルの中で、もうぼくは誰にも出会わないだろう。父にも、そして、早代子にも。安っぽい欲望や希望はかえってぼくを茨のように傷つける。濃密な光に充たされた夏のなかで、だがぼくは闇の中で一瞬煌めいては消える一条の光を見たいと目を凝らす。それは何だ、いや、そんなものはありはしない。いつもいい加減だった真鍮メッキのぼくの青春は、やがてトンネルの底でペシャンコになるだろう。

- 山川健一 『さよならの挨拶を』 -




写真 吉本隆明の書評集『空虚としての主題』の中で絶賛されていた作品。その昔非常に感銘を受けた遠藤周作の名作『沈黙』が書評の中で「致命的に通俗的」な作品(「私も人並みには、これらの作品に感動するのだが、否定すべき心情、低俗として自己嘲笑すべきものとして感動するのである。」)とされているのに対し、認められている作品はどのようなものなのだろうと興味がわき読んでみた(『沈黙』についてもまた読んでみたいと思う)。
 書評中では「物語を超えて」という章の中で、この作品が取り上げられている(『沈黙』とは章が違うので、『さよならの挨拶を』と単純に同列で優劣が論じられているわけではない)。この章で述べられているのは、作品の主人公がつむぎだそうとする「物語」と作者が提示しようとしている「主題」の関係である。いわく「作品としての実現は物語性を喪わずには不可能になっている。少なくともわたしはそういう抜きがたい認知を持っている。そしてこの認知には、物語性もうまくとりそろえ、同時に作品として成就させるというもっともらしい理想像は、じつは意図した妥協に終わるほかない虚像だという確信が含まれている。」
そして作品として実現させるためのアプローチとして、語り手が作ろうとする物語を「作者がそれを意図的に阻止し分散させ」るという方法(田中小実昌『スティンカー』)、物語の枠組みを無視して小説のモチーフを展開させてしまうという方法(東峰夫『天の大学』)、そして真正面から物語を乗り越えて行くという方法である。
 で、その第三の方法の例としてこの『さよならの挨拶を』があげられているというわけである。「わたしたちはこういう描写のうちに、大げさにいえば滅多に出遭えないような、稀な輝かしい作品体験をしている。つづめていえば、描写が作品の物語性の枠組みを、真正面からのり超えてゆく場面の体験なのだ。このいい方はもっと拡大して現在の文学作品が、物語性を真正面から超えてゆく現場の体験といってもいい。またその臨場感といってもいい。」
 だが残念ながら、それが一体何を意味しているのか良くわからなかった。この「物語性を超えてゆく」ということについて字面では何となくイメージできないこともないのだが、具体的に何を言わんとしているのかいまいちわからない。もし単純に「物語を解体したり無理矢理ひきずっていくのではなく、正面から物語を乗り越えることで主題を目指す」ということであるとすれば、この作品のどこらへんにそれを読み取ればいいのか、ちょっとわからなかった。物語を超えようとしているということはわかるのだが、超えてどこへ向かおうとしているのか、つまりこの小説の主題(単純に主題といってしまうのも問題だ。やはり行き先、目的地というのが適切な気がする)がいまいちわからないのだ。
 だいいち「物語性と作品性の矛盾」というこの章の前提自体がわからない。それは単に読み手の問題であり、作り手もしくは作品そのものにおいてそのような矛盾が本当に存在するのか?まあ自分は作り手ではもちろんないし、そんなに本をたくさん、深く読んでいるわけでもないので、ない、とは言い切れないのだが。『空虚としての主題』の中に(「物語を超えて」の章よりも前)もう少し詳しく触れてあったのかもしれないが、この本の5分の1も理解できなかったので、もう忘れてしまったというのが正直なところである。機会があったらもう一度読みなおしてみたいとは思っている。
 どうも『さよならの挨拶を』ではなく『空虚としての主題』の感想のようになってしまったが、そもそも『空虚としての主題』の中身を理解したくて読み出したところがあるので、仕方がないような気もする。結局はやっぱり良くわからなかったのだが。ぜひもう一度読みなおしてみたいと思っている。「作者は物語を超えてゆく確かな倫理で「ぼく」という主人公を設定している。見掛けは「ぼく」というトルエン吸飲者の弱々しく優しい自己主張の倫理を、さりげなく埋めこんでいる作品なのだが、こんな鮮明でしかも作者がじぶんを超えようとする倫理のはてに造形された作品の主人公を、わたしたちはそうざらに見つけだすことはできない。」


 「早代子、もう決めたんだ。後悔なんてしないよ。おれたちは、短い人生にほんの数度しか訪れない輝かしい時を、精いっぱい光り輝かすために毎日息を殺して生きてるんだよ。その瞬間がなければ、誰も長い砂漠を超えて行くことはできないんだ」

- 山川健一 『さよならの挨拶を』 -

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