スコット・フィッツジェラルド 『マイ・ロスト・シティー』

 二人はポーチの下でしばしたたずみ、遥かに遠い湖の上あたりに昇り始めた月を眺めた。夏は遠く過ぎ去り、今は冬を前にした小春日和。それも夜に入って芝生は冷たく乾き、しっとりとした霞はおろか露も降りはしない。 ハリーの姿が消え、ロクサンヌは家に入ってガス・ストーヴの火を点け、音を立てて鎧戸をおろすだろう。この二人の前を、人生はあまりに速く通り過ぎていった。しかしそれが残して行ったものは苦い思いではなく、悲しみを見つめる心だった。幻滅ではなく、痛みだけだった。二人が互いの目の中に浮かんだ優しさを認め合いながら別れの握手を交わす時、湖上の月は明るく彼らの姿を照らし出していた。

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写真 狂乱の1920年代を駆け抜けたスコット・フィッツジェラルドの短編集。村上春樹訳。
 新潮文庫版の『グレート・ギャツビー』は2ページと読むことができなかったが(訳がかなりひどかった)、こちらはなかなか面白く読むことができた。この短編集におさめられている五編の小説(『残り火』『氷の宮殿』『哀しみの孔雀』『失われた三時間』『アルコールの中で』。どれも本当に小編である)はどれも深い「悲しみ」がたたえられているが、特に悲しみの色の濃い『残り火』『哀しみの孔雀』が特に良かったと思う。
 フィッツジェラルドを読むのはじつは今回が初めてなのだが、それまで持っていたイメージとは大分違っているのに驚いた。フィッツジェラルドというと黄金のアメリカ20年代の申し子ということで、どんな華麗な作風なのかと思っていたのだが、思いのほか地味な(悪いというわけではない)雰囲気の作品だったのである。別にそういうイメージをどうと思っていたわけではないが、より親しみを感じたという思いがしたし、別の作品もぜひ読んでみたいと思っている。
 ところでこの本、「フィッツジェラルドの小説」というよりは「村上春樹の本」というのを主に売込もうとしているのが見える。本の最初にはまず村上春樹のフィッツジェラルドに関する短文が置かれているし、本の表紙は作者フィッツジェラルドよりも訳者村上春樹の方が大きく名前が描かれている。『グレート・ギャツビー』をまったく読むことができなかったことからも訳が非常に重要であるというのは分かっているのだが・・・こういう余りにも露骨なやり方はどうも・・・嫌な感じがしてしまう。特にこの本のように、小説そのものに十分に読むだけの価値がある時は。


 時折彼はジョーの枕もとに座ることがあった。しかし今夜はよそう。ジェイソンは居間に腰を下ろし、シーザーの『ガリア戦記』を取り上げた。
「神をも恐れぬスイス人たちは、受難の悲劇に・・・」
「いったい俺は何を恐れればいいんだ?」

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