井上靖 『真田軍記』

「私を幸綱にしておきたいなら、幸綱にしておいて結構です。生命は少しも惜しくはありません。幸綱として大阪城で死ぬべきだったのが、二十三年ほど遅れただけです」

- 井上靖 『真田軍記』より『真田軍記』 -




写真 真田家にまつわる人々のそれぞれをテーマに戦国時代の人々の生き方を描く連作である表題作のほか、どれも戦国時代に舞台を置いた短編4編を含む短編集。
 ごく小編的な短編集であり派手さはないが、なかなか雰囲気のある短編である。小説としては正直なところ、すごく面白い、とは言いがたいのだが、「戦国時代」という時代の雰囲気や、当時の人々の考え方などが、良く伝わってくる、そんななかなか味わい深い小説だと思う。無論フィクションである以上「これが正しい」と言うことは決して出来ないと思うが、いかにも「そうだったんだろうな」と思わせる筆致はさすがである。
 『本覚坊遺文』の中でも書いたが井上靖の歴史小説はどうも大味のものが多いと思っている(つまらないわけではないが、特に彼の短編小説と比較するとやはりかなり大振りである)。だがこの本の小説はそんな感じは少なく、かなりしっかりまとまっているようだ。それは短編小説であるということと共に、無名の人を中心に持ってきたということに由来していると思う。歴史的に知られた人物を主人公にすえるとどうしても大味な物語的な小説になってしまうのではないかと思うのだが、無名の人物の目から「時代」を主人公として浮かび上がらせるというアプローチをとったことで井上靖の短編らしい雰囲気をつくり出すことが出来たように感じる(『後白河院』『孔子』『本覚坊遺文』など第三者の目から、ある人物を描き出すのとよく似ている)。
 取り立てておすすめ、と言うことはないと思うが、機会があったら読んでみると良いのではないかと思う。


 多田新蔵にとって、ひどくばからしい、ほとんど信じられぬくらい間の抜けた大会戦の一日はいま終わろうとしていた。この日初めての、合戦場にある充実感がこのとき新蔵の瀕死の五体を充していた。しかし、それもやがて次第に救いのない空虚なものに変わってゆきつつあった。

- 井上靖 『真田軍記』より『篝火』 -

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