セルバンテス 『ドン・キホーテ 続編』

「で、わしたちは油断なく見張ってな、騎士に従士を加えた、このめちゃくちゃの合計が、どんなことになるかを見届けましょうて。ふたりは同じ一つの鋳型でつくられて、主人の狂乱も家来の愚鈍と組にしなければ、一文の値打ちもないと思われる組み合わせじゃからな」
「さようさよう」と、床屋。「して、あのふたりが、今ごろ何を話しとるか、知りたいものですね」

- セルバンテス 『ドン・キホーテ 続編』 -




写真 読んで字のごとく、『ドン・キホーテ』の続編。ドン・キホーテとその従者サンチョ・パンサが3度目の遍歴の旅に出る(正編では2度の遍歴の旅をおこなっている)。
 続編というとどうも「第一作があたったのでそれにあやかって作ってみました」的なものが多い(特に映画ではそう。「続編に名作無し」ともいうが)。読む前は「何だ、『ドン・キホーテ』にも続編があるんだ」という目でみていたのだが、読んでみると全く違うことに気がつく。
 とにかく正編とは全く雰囲気が違う。正編は以前にも書いたがドリフ的なドタバタがかった、コメディー色の強いになっているが、続編は明らかにそういうドタバタから脱した、変な言い方だが、非常にまっとうな小説になっていると思う(正編が「まっとう」でなかったというわけではない。「落ち着いた」というべきかもしれない)。
 まず第一に文章にかなり推敲をこらしているらしい点が雰囲気の違いの要因であろう。正編ではどうもセルバンテス自身で面白がってどんどん書いているような雰囲気があったが、続編ではかなり文章を練りながら書いている様子がうかがえる。ドン・キホーテ自身の言葉に関しても正編では、単にほかの騎士道物語から言葉を借りてきてしゃべっているシーンが多い(特に最初のほう)。それに対し続編では、もってまわった騎士口調はそのままにしても、かなり言葉を選んだしっかりした内容をしゃべっている。サンチョ・パンサにしても正編では単なるおかしなおしゃべりに過ぎないが、続編ではかなり身のある言葉をところどころで口にしている。
 そこら辺とも関わりのあることであるが、続編では登場人物の性格が非常にしっかりと固められているということも、雰囲気の違いの原因にあげられるだろう。正編ではドン・キホーテもサンチョも頭のおかしい道化師という扱いに近いが(特に続編と比べると)、続編ではドン・キホーテは「自分を遍歴の騎士である」と信じているという一点以外については教養のある賢い人物という性格設定で一貫しているし、サンチョにしても「バカなこともいえば賢いことも口にする、賢者か愚者か判断のつきかねる」人物ということで通してある(そこら辺の設定についてはしつこいと思うほど何度も繰り返される)。むしろ続編の半分くらいに登場し、さんざんドン・キホーテをからかう公爵やアルティシドーラのほうがよほど変な人物のようにみえてくる(ドン・キホーテの伝記の著者シーデ・ハメーテ・ベネンヘーリも言っている。「からかう者もからかわれる者も、正気の沙汰ではなく、また公爵夫婦にしても、これほどまでに熱を入れて、二人の愚か者をからかうとは、愚か者といくばくの径庭があろうか」)。
 別段解説をするつもりもないのでこの辺でやめておくが、続編といいながらも正編に見劣りしない、むしろよりすぐれた小説であるといえると思う。ただし、個人的には、どちらかといえば、続編よりも正編の方が好きだ。小説としては続編の方よりりすぐれているというのは確かであるが、正編の方がよりいきいきとした小説になっているような気がするのである。続編の方が死んでいるとか、活きがないということは決してないが、正編の方がより勢いがあるように思えるのだ。そこら辺はあくまでも個人的な好みの範囲である。
 ところで続編の世界では正編及び続編の執筆中に出版された『ドン・キホーテ』の贋作が出てくる。登場人物のほとんどが正編を読んでいるし、また途中からは贋作をも読んでいる。そういう四次元的、ちょっとSF的(どうしてSF的かは読めば分かる)な構成が400年前の小説でとられているというのもなかなか興味深い。またこの本では、注釈の中で、しきりに細かな誤り(人の名前や日付など)を指摘したり、語呂合わせの解説などがおこなわれているが、出版後400年たってもここが違う、あそこがおかしいといじくりまわされているというのもなかなか不思議なものだ。


「わしゃあとへは、もう引けねえ。ここにおるくれえなら、トルコ人にでもなるか、死んだがましよ。こねえなわるさは、二度とはさせねえ。こねえな領地もまっぴらごめん。どっかの領地が二の膳据えて、迎えに来てもごめんだね。それを食うより、羽なしで、あの大空を飛んで見せらあ。わしもパンサの一統だ。わしらパンサの一統は、どいつもこいつも頑固もん、一ぺんいやと言ったが最後、たとえそいつがまちがってても、世間にゃまことに相済まねえが、はばかりながら、いやを通すだ。蟻の羽めがこのわしを、燕や小鳥の餌じきにしょうと、空中高く舞いあがらせた。その羽めをばこの馬小屋に、きれえさっぱり脱ぎ捨てて、また足裏を地べたにつけて、わしは歩くだ。孔で飾った山羊革の靴にて足は飾らねど、粗末だろうと、縄編みの冷飯草履にゃ、事欠かねえ。牛は牛連れ、馬は馬連れ。誰とても蒲団のたけより脛を伸ばすな。さあ、通してくんな。遅うなっただ」

- セルバンテス 『ドン・キホーテ 続編』 -

→Amazon  


  前へ
   次へ