村上春樹 『スプートニクの恋人』

「わたしにはそのときに理解できたの。わたしたちは素敵な旅の連れであったけれど、結局はそれぞれの軌道を描く孤独な金属の塊に過ぎなかったんだって。遠くから見ると、それは流星のように美しくみえる。でも実際のわたしたちは、ひとりずつそこに閉じこめられたまま、どこに行くこともできない囚人のようなものに過ぎない。ふたつの衛星の軌道がたまたまかさなりあうとき、わたしたちはこうして顔を合わせる。あるいは心を触れ合わせることもできるかもしれない。でもっそれは束の間のこと。次の瞬間にはわたしたちはまた絶対の孤独の中にいる。いつか燃え尽きてゼロになってしまうまでね」

- 村上春樹 『スプートニクの恋人』 -




写真 村上春樹、割合最近の作品。すみれに突然訪れた竜巻のような恋を中心に「僕」とすみれ、ミュウの奇妙な関係を描く。
 ストーリーの当初は主に「僕」が語るすみれの恋の行方が描かれていくため、けっこうな違和感を感じた。村上春樹の小説というと、一人称で語られる「僕」の物語、というのが基本である。しかしこの小説は一人称の語りではあっても「僕」の物語と言うよりもむしろすみれの物語のように思えるからである。とはいえ読み進めていくとそうではないことに気がつく。やはり「僕」の物語である。そこに気がつくと「いつもの村上春樹である」という安心感を感じる反面、けっこうな失望感を感じもしたと思う。
 読み始めてすみれの物語が展開されるにつれ、「村上春樹も新しい挑戦をはじめたのかな?」というけっこうな期待感を感じていたのである。別に村上春樹の作品にマンネリ感や閉塞感を感じているわけでは決してない。この小説も「らしい」作品ではあったが十分に面白かったと思う。だが正直なところ、ここら辺で新しいチャレンジをしてくれても良い頃ではないかなあ、という期待も持っている。『アンダーグラウンド』は「新しい挑戦」というにふさわしかったと思うが、もう少し「小説的に」新しい面を見せて欲しいと思う。読み始めてそこら辺に結構期待をしていたのだが、まあこの作品に関しては特にそういうことはなく、ちょっとがっかりもしてしまったのである。
 繰り返すが、作品自体のできとしてはまずまず良くできている方と思う。決して読んで損はないと思う。
 ところでこの小説、ラストで「にんじん」のエピソードが語られている。このエピソードは小説の展開的に、違和感を感じるような、でもやはり必要不可欠のような(どちらかといえば後者である)雰囲気を持っている。そこで「このにんじんのエピソードは小説の中でどのような意味を持っているのでしょうか?」と分析的に考えてしまいがちである(少なくとも自分は)。「カフカ」の中でも書いたが、そこら辺がどうも「読書」に対する一般的な考え方の悪いところではないかと思う。そこに意味を持って構成されているのは間違いないのだろうが、小説をそういう考え方で分析してしまうと、小説自体が死んでしまうような気がする。言葉にならない「感覚」を感じることが重要なのではないだろうか?村上春樹のような微妙な感覚の小説を読んでいると、特にそういうことを感じてしまう。「どこがどう良かった」なんて考えずに、「何となく良かった」で良いと思う。そういう軽い気持で読んでもらいたいと思う。


 ぼくは夢を見る。ときどきぼくにはそれがただひとつの正しい行為であるように思える。夢を見ること、夢の世界に生きること−すみれが書いていたように。でもそれは長くはつづかない。いつか覚醒がぼくをとらえる。
 ぼくは夜中の三時に目を覚まし、明かりをつけ、身を起こし、枕もとの電話機を眺める。

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