マルキ・ド・サド 『恋の罪』

 人間が心の安らぎを見いだせるのは墓の暗闇の中でしかないことを得心させるためにほかならない。同胞の悪意、情熱の錯乱、そして何よりも人の境遇につきまとう宿命を思えば、人間がこの世で平安を得ることなど永久にないからである。

- マルキ・ド・サド 『恋の罪』 -




写真  自分は一応文学的に寛容であることを自認している。文学作品や漫画、アニメなどに対してつるし上げや、規制をしたりするのはばかげていると思うし、実際ばかだと思う。でも以前サドの「違反の」小説『ソドム百二十日』を読んだとき、正直「これを「文学」であると最初に認めた人間は頭がおかしい」と思った。特にサドの小説を読むのはこれが初めてだっただけに、ショックは大きかった。さすがにサドだ、って。
 ちなみに言うまでもないことだけど、サドはSMのSの方の語源である。ついでに言うならMは同じく小説家のマゾッホが語源(こっちの人は良く知らない)で、ロリコンつまりロリータコンプレックスはロシアの作家ナボコフの小説『ロリータ』が、マザコンの別称エディプスコンプレックスはギリシャの悲劇『オイディプス王』が語源であり、レズビアンはギリシャのレスボス島という島に由来する。じゃあホモは?ホモは確かラテン語で「同じ」を意味する。「同性」、つまり「ホモ・セクシュアル」である。なんにでも起源というものがあるのだ。

 で今回「適法の」小説『恋の罪』を読んでみて、少しはサドに対する見方が変わったと思う。これなら十分に立派な小説だといえる。
 このサドの短編集のテーマは「悪徳と宿命に踏みにじられる美徳の不幸」である。「美徳のよろめき」どころではなく、徹底的に踏みにじられる。そしてそれが、同情の涙を呼ぶ、らしい。
 考えれば簡単である。「おしん」である。「家無き子」でも良い。『奇跡の海』や『ダンサーインザダーク』だってそれに近い。みんなサディスティックなドラマだ。
 でもおしんの脚本家)や野島伸二やラース・フォン・トリアーには無いすごみや生々しさがサドの小説にはあると思う。毒々しさというか(ちなみに「違反の小説」というか『ソドム百二十日』にはそれが渦巻いている)。短編集中の一編『フロルヴィルとクールヴァル、または宿命』などは読んでいて、「作者は楽しんでいるのではないか」と思ってしまう。運命に弄ばれる主人公を見て同情の涙を流すより、書いている作者を憎んでしまうのである。「こいつばかじゃないか?」で、解説じみてしまうけど、「これ書いた人、ちょっと頭がおかしいんじゃない?」で済むのが「適法の小説」、「書いたやつは頭がおかしい、精神病院(もしくは牢獄)へ入れてしまえ!」というのが「違反の小説」(公には出版されないいわば裏本)というわけである。
 世の中には「奇書」という言葉があるが、サドの小説はまさにそれである。善悪を越えて、なんともものすごい。

 今度ジェフリー・ラッシュとケイト・ウィンスレット主演で『Quills』というサドの伝記映画をやるらしいけど、見る前に参考として読んでおくといいだろう。実際どんな本を書いているかを知っているのと知らないのとでは大きな違いがあると思う。

 こう書くと普通の人って「違反の小説」から入ってしまうんじゃないかと思うのだが(自分がそうだった)、おそらくそれは避けた方が良いだろう。「適法の小説」を読んでサドが「まともな人間である」ことを確かめてから、「違法の小説」に進むべきだと思う。「違法の小説」を先に読むと「絶対にまともな人間じゃないし、作家じゃない」と思ってしまう危険性がある。

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