遠藤周作 『深い河』

「彼女は・・・印度人の苦しみのすべてを表しているんです。長い間、印度人が味わわねばならなかった病苦や死や飢えがこの像に出てます。長い間、彼等が苦しんできたすべての病気にこの女神はかかっています。コブラや蠍の毒にも耐えています。それなのに彼女は・・・喘ぎながら、萎びた乳房で乳を人間に与えている。これが印度です。この印度を皆さんにお見せしたかった」

- 遠藤周作 『深い河』 -




写真 遠藤周作晩年の長編小説。立場も背負っているものの違う人々が、それぞれの目的でガンジス川を目指す。
 遠藤周作というと長年多くの作品でキリスト教、特に日本的なキリスト教について描いてきた作家である。その遠藤周作があまりにもキリスト教とかけ離れた(少なくとも西洋的なキリスト教とは)インドのガンジス河をテーマに取りあげるということでどうなるのかと非常に興味深かったのだが・・・。結論からいえば、それまでの遠藤周作の世界からさほど違ったものではないように思えた。『沈黙』『』『母なるもの』などで描いてきた「全てを許し受け入れてくれるもの」をガンジス河に求めているのである。
 「ガンジス河を見るたび、ぼくは玉ねぎを考えます。ガンジス河は指の腐った手を差し出す物乞いの女も殺されたガンジー首相も同じように拒まず一人一人の灰をのみこんで流れていきます。玉ねぎという愛の河はどんな醜い人間もどんなよごれた人間もすべて拒まず受け入れて流れます」(注:玉ねぎとは「神」のこと)
 いくつもの作品の中で追い求め描こうとしてきたそういう存在を、キリスト教の中だけではなく(本作品では大津の存在で西欧的なキリスト教を否定してもいる)、もっと普遍的なものへ昇華させようという試みが今回の作品なのであろうと思う。そういう点からはなるほどなあと思える、なかなか面白い小説であったと思う。
 ただしそこにはやはりキリスト教的な考え方が根本にあるのは間違いなく、気になる点もあった。例えばなかなかキリスト教的な二元論を捨てきれていないところなど。確かに作品中では二元論を否定してはいるのだがそれは、インドの神には善と悪、創造と破壊が共存している、というような表現で(正確な表現は忘れた)、結局それは消極的な二元論に過ぎないのではないかというような気がしてしまうのである。シヴァやカーリーなどはふたつあるいは複数の要素の混合というよりは、不可分の一つの存在なのではないかと考えている。つまり破壊と創造が同居しているのではなく、破壊こそが創造であり、創造は破壊を暗示しているというような(「良いは悪い、悪いは良い」)。でも、それはやはり二元論なのかもしれないが。
 それにしても、作家ってやっぱりすごいと思う。インドに関する描写に関してはところどころに「あれ?」というシーンが見られるのだが、逆にどきっとさせられてしまうような文章も多い。特にガンガーの描写、外面的な描写ではなく、登場人物たちの内面に重ね合わせた文章などには、うならされてしまうようなものがあった。遠藤周作に関して個人的には、結構「?」という感想・評価もあるのだが、やっぱり大した作家だと思う。


「信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です」と、美津子の心の口調はいつの間にか祈りの調子に変わっている。「その人たちを包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の深い河の悲しみ。その中にわたくしもまじっています」

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