安部公房 『砂漠の思想』

 砂漠には、あるいは砂漠的な物には、いつもなにかしら言いしれぬ魅力があるものである。

- 安部公房 『砂漠の思想』 -




写真 「難解」という形容詞がぴったりと来る一冊。
 少なくとも俺にとってはかなり難しかった。
 安部公房という作家は言うまでもなく、非常に論理的・科学的な思考をする作家であり、中期以降の作品(『他人の顔』や『砂の女』『第四間氷期』などいくらでもある)には、そういった科学的な記述が多く見られるし、初期の『S・カルマ氏の犯罪』などでもシュールリアリスティックな内容でありながら、とても論理的な内容が目立つ。この論集『砂漠の思想』もそんな論理的思考でいっぱいである。
 解説にも書いてあるが、この本では「訳の分からない物」「論じられてこなかった物」を論理的に解剖しようと言う、試みがいくつか行われている。ヘビはなぜ人間に嫌悪感をもよおさせるのか?これを言語という記号を使って論理的に解き明かそうとするのだが・・・わからないのである(ヘビの話は別に難しくないのでわかるのだが)
 読み手の問題も、ある。残念ながら安部公房並どころか、その著作を読みこなすだけの能力が欠けているらしい。それにあまり真面目に読んでいないと言うのも事実だ。ちょっとした読み物程度として読んでいるせいもある。
 でもそもそもこういった論説として成り立ちうるかどうかという問題もあると思う。何かを論理的に分析する。それはいい。それを誰かに文章として伝えるときには文章という言語を使用して伝達する。その時点でかなりのディスコミュニケーションが発生すると思う。同じ言葉でも人によって受け取り方が違うし、通じないことだって無論ある。そういう点で安部公房の目指した言語化・論理化と、その伝達の間にある壁の存在を感じてしまった。言語化・論理化により訳の分からない物を明確にすることができるのだけど、それを言語によって伝達しようとすると(無論伝達は言語の重要な役目である)、また訳の分からない物に逆戻りしてしまうのである。とはいえそこには当然発する側と受け取る側のギャップの問題もある。まあこんな風にごちゃごちゃ言ったって、要はわからない側のレベルが低くて、その言い訳っていうことでもあるのだが。
 期せずしてこの本の後半は映画の評論が多く含まれている。安部公房というと戯曲をたくさん書いたりと、舞台演劇との関係は良く知っていたが、映画にもずい分と関心が深かったらしい。
 内容はと言うと難解であるのはいうまでもないが、総じて監督としての立場および「映画は芸術」という視点からの内容が多いようだ。個人的には安部公房の映画に対する見方はかなり偏狭なのではないかと思う。どう考えても「くだらない」という感想以外でてこないハリウッド的娯楽大作から、意味のさっぱりわからないヨーロッパ(特にフランス)の映画、映画らしさの全くない日本の映画等々、その多様性が映画の命であるのではないかと思っているんだけど、安部公房の芸術指向の映画論はそんな多様性を否定してしまう傾向がかなりあるのではないかと。著作の中ではミュージカルスについていろいろと論じる中で、そんな多様性が重要だなんて書いているんだけど、結果としてその映画に対する見方ってかなり狭くなっているような気がするんだよね。くだらない映画もあるから良い映画もできる、そんな寛容な見方が大事なんじゃないか、なんて考えてしまった。内容自体は非常に独特で(たぶん)結構読みごたえはあると思う。映画が好きで、なおかつ文学にそれなりに自信がある人、は読んでみると良いと思う。
 難解、難解と何度も書き立てているが、やはり「不可解」なわけではないらしい。「ヘテロの構造」の中から文章を引用してキーボードをたたいているうちにうちに、さっと読んだだけでは理解しかねるその意味が分かるようになった(前年ながら引用した部分だけではいくら読んでも意味は分からないと思うが)。2度、3度読んでいけばかなりわかってくるのだろう。実に奥深い本である。


 たとえ、エゴイズムという精神のアレルギー症状を起こそうとも、孤独という拒絶の病におかされようとも、集団としては、そうした個の病によって、かえって健康を保持しているのかもしれないのだ。いや、それを病気だと考えることが、そもそもホモ的偏見なのかもしれない。そうした混乱は、必要悪という以上に、むしろ未来を約束された社会の本来のありかたかもしれないのである。現代の危険や困難は、ますます拡大していくヘテロ的部分などにあるのではなく、それを直視しえずに、むやみと全体との融合をあせる、ホモ的衝動のほうにこそあるのではあるまいか。
 たしかに、ホモ化の誘惑に身をまかせるよりは、ヘテロ的状態の中に踏みとどまって、目覚めていることのほうが、はるかに勇気と努力を必要とすることだ。孤独だとか、疎外だとか、混乱だとか、理念の喪失だとか、そうした表現に多少でも避難のニュアンスがつきまとっているかぎり、まず学ばなければならないのは、あらゆる指導理念から耳をふさいでしまう、逃亡の術なのかもしれない。ヘテロの構造においては、多数もまた多数という名の例外にしか過ぎないのだから・・・・・・

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