北杜夫 『まっくらけのけ』

 ほんのさいぜんまで、私はアリスが体験したような、一種心の呪縛を誘う、ふしぎな世界をさ迷っていたのだった。
 アレキサンドリアの町は表通りこそ整然としているが、一歩裏町にはいると、徹底的に雑然とした、うす汚れた風景がひろがる。
 建物の壁は大半が剥げ落ち、路上は埃に満ち、馬糞の臭いが漂っている。そこに屋台を広げ、果物、野菜をかしましく商っている。店先の鉄板の上に油を引き、この地方特有の平たいパンを焼いている箇所もある。
 そうしたやかましい商人達と対照的に、傾いた軒先に椅子を出して徒らに沈黙している白髪の老人がいる。長い裾を引く白衣をまとった男が、これもどこか無機物のようにうずくまっている。あるいは一杯のコーヒーを前にして、無言で将棋のようなものをやっている連中もいる。
 それは怠惰で、退廃的で、要するに貧困と惰性との縮図のようなものであった。そうした小路小路をたどってゆくうちに、私は自分が、そうした巨大なもちにとらわれ、無気力でかつ燦然とした世界に引きずりこまれるのを感じた。
 だがいつも覚醒がきた。悲しいといってよいような覚醒が。

- 北杜夫 『まっくらけのけ』 -




写真 「自分は躁鬱病である」という本人の弁を信じるならば、北杜夫の作品は躁の時期、鬱の時期でその色合いを全く異にしている。鬱の時期の作品は重くたれ込めた暗雲に覆われた空や、べたべたとした霧が立ちこめる夜のように、暗澹とした雰囲気の作品が多いし、躁の時期は、陽気で饒舌なコミカルな作品になる。鬱の描写に比すれば夏の太陽の下の海辺や草原と言うことになろうか。
 そして興味深いことに(当然といえば当然かもしれない)躁と鬱の中間のバランスのとれた時期に、北杜夫の代表作とも言える大作が多く生まれているようである。まあこれは実際は逆で、「鬱の時期に暗い小説が生まれる」のではなく「暗い小説を読んで鬱の時期だと判断」しているだけとも言えるが。とにかく北杜夫の小説はそういった三種の色を持った小説に分類できる。
 北杜夫のすごいところはその三種のどれにおいてもすばらしい作品を残しているところだと思う。鬱の作品は、まさに「血は争えぬ」という繊細で詩的なものが多いし、躁の作品は非常に読みやすく楽しいものである。そして中間としては『楡家の人々』や『輝ける碧き空の下で』『白きたおやかな峰』といった文学史に残る名作を残している。特にこの中間のものは躁鬱双方の良さである、詩的な文章力と、娯楽性を合わせ持ったすばらしい小説となっている。(ちなみに引用した文章はこの分類でいけば多分に「鬱」である)
 まあ何はともあれ『楡家の人々』を読んでみよう。「本てこんなに面白いんだ」と改めて感じることができるだろう。


 人はなぜ追憶を語るのだろうか。
 どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みの中に姿を失うようにも見える。だが、あのおぼろな昔に人の心に忍び込み、そっと爪跡を残していった事柄を、人は知らず知らず、くる年もくる年も反芻し続けているものらしい。 

- 北杜夫 『まっくらけのけ』 -

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