村上春樹 『国境の南、太陽の西』

「そしてある日、あなたの中で何かが死んでしまうの」
「死ぬって、どんなものが?」
 彼女は首を振った。
「わからないわ。何かよ。東の地平線から上がって、中空を通り過ぎて、西の地平線に沈んでいく太陽を毎日毎日繰り返して見ているうちに、あなたの中で何かがぷつんと切れて死んでしまうの。そしてあなたは地面に鋤を放り出し、そのまま何も考えずにずっと西に向けて歩いていくの。太陽の西に向けて。そして憑かれたように何日も何日も飲まず食わずで歩き続けて、そのまま地面に倒れて死んでしまうの。それがヒステリア・シベリアナ」
 僕は大地につっぷして死んでいくシベリアの農夫の姿を思い浮かべた。
「太陽の西には一体何があるの?」

- 村上春樹 『国境の南、太陽の西』 -




写真 いきなりで申し訳ないんだけど、別に『国境の南、太陽の西』が、村上春樹の中で一番好きなわけではない。たまたま文を引用したので紹介することになっただけだ。ちなみに「一番」をしいてあげるとすれば『ダンスダンスダンス』だろうと思う。
 とはいえ、『国境の南、太陽の西』は好きな方の作品ではある。まあ全体を見渡して分析したことがないので、そういう感じがする、という程度だが。村上春樹の作品は、初期の『風の歌を聴け』のシリーズ?から、『ねじまき鳥クロニクル』までで、扱う素材に大分変化があるが、そのそこに流れているもの(「テーマ」といっても良いだろう)にかわりはない。一言でいうと何か安っぽく感じてしまうが、「失い続けていく人生の哀しみ」ということである。このテーマがこの作品にはすごくよく表れている、と思う。
  他の作品は、超越的な存在(双子、黒メガネ(?)、アメ、博士とその太った娘、シナモンとナツメグなど)と割と平凡だけどちょっと浮いた存在(図書館の娘、笠原メイなど)の中で、何とかしようともがきながら、それでも次々と失っていく自分という構図があって、物語を形作っている。それに対してこの作品では出てくる人がみな自分と同じように何かしら失い続けている。そのせいでこの本は他に比べて、より哀しみの色彩の濃いものになっていて、それが気に入っている理由だと思う。そのせいで地味な感じがしてしまうというのも事実ではあるけれど。
  なんで村上春樹の小説が好きなんだろう、と考えてみる。正直なところ、良くわからないというより、さっぱりわからない、に近いが、この辺の失い続ける人生の哀しみというテーマが一つ理由にあると思う。物語になるような喪失でなくとも、様々なものを失い続けている。誰かと別れたとか、ものをなくしたというだけでなく、子供の頃によく遊んだ公園とか、毎日前を通っていた建物とかが変わってしまったということでも、ふと思い返してみると失った哀しみというものを感じる。そういった割と日常的でもある哀感を丁寧に描いているところが好きなのであり、それが最も強く現れているからやや地味でも気に入っているのかもしれない。

 ところで。村上春樹は文章がうまい。ストレートでわかりやすすぎるところが難と言えなくもないが、それにしてもうまい。と思って文章をそういう観点から眺めてみると、文章自体は結構癖というか、傾向みたいなものがある。でも読んでいるときは読みやすくて、うまいなあと思っちゃうんだよね。文章が短くてテンポがいいのか、ストーリーが読ませるのか・・・いずれにせよ、名文家ではないが、実にうまい。


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