ほんのさいぜんまで、私はアリスが体験したような、一種心の呪縛を誘う、ふしぎな
世界をさ迷っていたのだった。 アレキサンドリアの町は表通りこそ整然としているが、一歩裏町にはいると、徹底的 に雑然とした、うす汚れた風景がひろがる。 建物の壁は大半が剥げ落ち、路上は埃に満ち、馬糞の臭いが漂っている。そこに屋台 を広げ、果物、野菜をかしましく商っている。店先の鉄板の上に油を引き、この地方 特有の平たいパンを焼いている箇所もある。 そうしたやかましい商人達と対照的に、傾いた軒先に椅子を出して徒らに沈黙してい る白髪の老人がいる。長い裾を引く白衣をまとった男が、これもどこか無機物のよう にうずくまっている。あるいは一杯のコーヒーを前にして、無言で将棋のようなもの をやっている連中もいる。 それは怠惰で、退廃的で、要するに貧困と惰性との縮図のようなものであった。そう した小路小路をたどってゆくうちに、私は自分が、そうした巨大なもちにとらわれ、 無気力でかつ燦然とした世界に引きずりこまれるのを感じた。 だがいつも覚醒がきた。悲しいといってよいような覚醒が。 - 北杜夫 『まっくらけのけ』より『船長』より - |
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日記はここで終わる。 この旅は自分にとってはそんな、いまいち訳の分からない不思議な体験だったように思う。「異常な」といっても良いのかも知れない。そして自分自身が大きく変わった。そんなところだ。「インドに行こう」なんて思っている人は気をつけよう。行ったが最後、もう二度と後戻りはできなくなると思う。それがどういう結果であれ。そんな影響力を持ったところだ。
最後に一つ。 「人間の記憶は決して失われることはない。『忘れる』と言うことは記憶の隅に押し込まれて取り出せなくなってしまった状態である」心理学では記憶についてこんな事を言っている。催眠術などを使えばこうした「忘れられた」記憶を呼び起こすことは可能だ、と。(細かいことを言うというと「覚えている」記憶の表面と「忘れた」記憶の奥には境界線があるのだが、催眠状態にすることでその境界線が取り払われ、「忘れられた」記憶がよみがえるものらしい。ちなみに夢を見ているときも境界線が曖昧になっているため、忘れられた記憶(その多くは意識に結びつけられて)がよみがえってくるものなのだそうだ。確かフロイトである) |
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