インドの旅についていろいろなことを書きたいと思っていた。電車の乗り方、買い物の仕方、映画の見方・・・。でももうみな忘れてしまった。昔のことになってしまったと思う。ただしどうしてもかいておきたいと思ったことがある。バクシーシについてだ。
バクシーシ、喜捨すなわち貧しい人に施しを与える行為の事である。 実際インドにはこれでもかというほど、喜捨を求める人々がいる。そういう言葉は使いたくはないが、一言でいえば乞食だ。また「求める」といってもいろいろで、ただ道ばたに座っている人、通りがかりに手を差し出す人、どこまでもついてくる人(子供が多い)様々である。
日本人はどうもバクシーシはできない、という人が多いようだ。理由は様々だと思う。単に惜しいと思う、相手にとって良くないと思う(情は人のためならず?)、自分はそんなに偉くないんだと思う(卑下している?)。
自分もインドにいった当初はそうだった。理由は今から考えてみると良く分からない。たぶん「卑下」という理由が大きいのではないだろうか。ともかくバクシーシを求める人を見ると反射的に体が固まってしまうほどだ。
だがある光景を切っ掛けにかわった。たいしたことではない。道ばたに座っている人にひょいとこともなげに小銭を与えたインド人を、バスの中から見たというだけだ。
ここからがこの話の主題となる。なぜ自分がバクシーシをするべきだと考えるようにいたったか。簡単なことである。「インド人にできることをなぜ自分はしようとしないのだ?」
インド人がごく日常的に行っていることである。ましてや(ここからが重要だ)自分はただ「インドにきた」という理由だけの「にわか成り金」である。通貨を交換しただけで手持ちのお金の価値が十倍になったバブル長者である。学校にも行かず適当にバイトして手に入れたあぶく銭である。(おそらく)一生懸命稼いでいるインド人が手にしたなけなしの金を何ごともないかのように自然に喜捨できるのに、おれはあぶく銭を抱え込んで何をしようとしているんだ?
まあそんなことで反省し、それ以降はバクシーシをするようにしていた。まあ実際やってみようとするとなかなか難しいものだ。そう反省してみても座っている人を見て反射的に手がすくみ、通り過ぎてから後悔したことも何度もあるし、あげようと思っても小銭がなかったこともある。これもなかなか技術を要するものである。
別に「バクシーシをしなさい」、と声高に訴えるつもりはない。いろいろと考えもあると思う。でも基本的にはやはりバクシーシを行ってほしいと思う。お金を持っている人はそれを少しでも分け与える(手塚治虫「ブッダ」を読め)のがその精神である。
実際にバクシーシの場面になったら一度考えてほしい。
それは本当に抱え込むだけの価値のあるものですか? あなたは本当にそれを抱え込むだけの価値のある人間ですか?
追記 インドには子供の物乞いが多いと書いた。彼らにはお金を上げるのも良いだろうが、個人的にはお菓子を上げるのが良いんじゃないかと思う。アメのようなものだ。別に明確な理由があるわけじゃない。なんとなくだ。お金をあげるよりも精神的な抵抗も小さいと思うし。
施しを求めてどこまでもついてきた子供のことを今でも良く思い出す。なんであのときたかだか数ルピーを与えることができなかったんだろう?思い出すたびに後悔の念が頭をよぎる。
|