しかし、君は窓辺に座り、夕べが来ると、使者の到来を夢見ている。

- フランツ・カフカ 『カフカ寓話集』より『皇帝の使者』より -

 

そもそもの問題はデリー−>クアラルンプールの飛行機の予約が取れていなかったということだ。行く前にはたしかに「取れた」といわれたのだが。出発の前日に飛行機の便を変えたせいかもしれない。といっても「取れるなら、変えたい」とはっきりと言ったのだからこっちの落ち度ではない。 とにかくアーグラーでリコンファームをしようとして取れていないことがわかり、デリーではマレーシア航空のオフィスへの日参の毎日だった。まず3/17のデリー−>クアラルンプールのウェイティングリストに入れてもらい、次の東京行きの便である3/21の確保をしようとするとこちらはデリー−>クアラルンプールはOKでクアラルンプール−>東京が取れないという。で次の東京行きは3/24のチェンナイ(マドラス)−>クアラルンプール−>東京で、これはOKだという。それを予約してチェンナイ行きの鉄道の券を買ったのだが、翌日オフィスの確認に行くと、今度はチェンナイから乗れないと言う。東京−>マドラス、デリー−>東京のオープンチケットを買ったのだが(確か45日オープンである)搭乗地はかえられないというのである(結局鉄道のチケットはキャンセルした)。さらにその次は3/27でこれならデリー−>クアラルンプール−>東京が取れた。
で結局3/17にウェイティングリストに期待してデリー空港まで行き、ダメなら今度は3/21にクアラルンプールまで行き東京行きのウェイティングリストにかけて、もしダメならクアラルンプールで3/24の便を待つということになったのである。結果は3/17はダメで3/21にクアラルンプールで東京行きの便に運良く乗れて、帰ってくることができた。 まあこれだけのことをするのに結局平日は毎日マレーシア航空のオフィスに通うハメになったのである。ちょっと話をしては明日の3時以降に来いとか、明日の朝一番で来いとか。ちなみに3/24ではいろいろ都合があってまずかったもので、ベトナム航空で帰ることとかも検討してオフィスまで行って話をしたりとか、まあ大変は大変だったけど、良い経験でもあったと思う。 ちなみに運のいいことにマレーシア航空のオフィスはコンノートプレイスにあったため、まず朝コンノートまでいってオフィスに顔を出してそこからどこかへ出かけたり、どこかからコンノートまで帰ってきてオフィスに顔を出したりとできたので、毎日いったとはいえ結構負担は少なかったと思う。コンノートプレイスとはニューデリーのまさに中心であり、銀座と新宿と丸の内をあわせたようなところである。当然交通もここに集まるため、とりあえずホテルからコンノートまで歩いて、そこからバスに乗るということができたのである。まあ不幸中の幸いと言うべきか。

ここら辺のごたごたで結構参っていて、デリーではなかなか日記を書く気になれなかった。あとインドの旅自体へのマンネリ感もあったんだろう。正直デリーでは「ああこんなもんだよな」って思うことが多かったと思う。最初の頃の何をやっても、何を食べても、何をされても感動していたような、まあ子供のような気持ではなくなっていたのはたしかである。
しかしいまはノートのぽっかりと間の抜けた日付をながめるたびに、強く後悔の念を覚える。日記をずっとながめてきてでリーがぽっかり抜けていると、まるでその間は自分が旅行をしていなかったかのようである。この間日記を書かなかったことが本当に悔やまれる。

幸いなことに一緒に行った木村が日々の行動をノートしていたので、以下彼のノートをもとにデリーのたびを復元してある。こうした箇条書きでも実に役に立つようで、ほとんど忘れていたデリーの情景を次々と思い出すことができた。ライブの日記と内容的には遜色無いのではないかとも思う。失われてしまった旅日記のかわりに、木村ノートによって呼び起こされた記憶の数々を以下に記すことにする。