一瞬の夢 −中国の旅−
第四章 「一瞬の夢」 その2



5/6(日)PM3:42 水戸行常ばん線車内にて
日記的には未完となってしまったインドの反省をふまえて日記のまとめのようなものを書いてみようと思う。(ひまだから、というのもある。)
見聞録的な見地からのまとめで行くと、中国の変わりよう(あるいは変わりゆくさま)には本当に驚かされた。前回の時も同じような感想を持ったので、今回はその思いを新たにした、というのが正確かもしれない。象徴的なのが王府井である。前回行った時はどこもかしこも工事中で閑散としており、本屋に入ったという記憶しか無かったのだが、今や東京にも無いような巨大な、キレイな、人出が多く活気のある(これは中国的だ)ショッピングモールへと変ぼうしている。また北京は前回もそうだったが西安でもいたるところで建物の工事中というのも印象的である。この調子で進んでいくと、じきにアメリカに肩を並べる超大国になり、日本などはひとたまりもなくその力にのみこまれてしまうのではないかという恐怖を感じる(日本がのみこまれたって良いんじゃないかとも思うけど)しばらく前にNIEsの4カ国を4小龍にたとえていた時期があったが、今まさに巨龍が動き出したという感じである。
家 もう一つは古き物が次々と消えていきつつあるということがあげられる。数年のうちに北京の伝統的な下町の建築である胡同(フートン)は消え去ってしまうだろうと言われている。それは西安にしても同じで城壁の上から眺めると中国らしい下町風の建物(外国人の目から見て、である)が次々と取り壊され建て替えられている。おれの目から見るとこれは非常におしいことのように思えてしまう。浅草の仲見世を全部壊してショッピングセンターを建てようとするようなものだ。かといって我々のような外国人観光客向けに、中国人に不便な生活を強制することなどということはむろんできない。日本だってそんな「日本的なもの」を捨てることでここまで来ているのである。「らしさ」と「便利さ」の間でうまい妥協点を見つけて開発をすすめてくれることを祈るのみである。まあ中関村の電子城などをみるとハイテクのデパートでもわいざつさや人の多さ、活気などはいかにも中国らしさがあって、安心もできる。問題は文化というようなソフト面ではなく建築物などのハード面である。懐古趣味におちいっては先へ進めないが、全て失ってしまうには惜し過ぎる。
個人的な見地からいくと今回の旅はインド程大きな影響を受けるものではなかったと思う。何しろ9日間、実質7日間という短い期間である。どうしても効率よく動くということばかりが頭に浮かんできて心の余裕がなかったというのが一因かもしれない。ちょっと観光旅行的すぎたかなというきらいはあるし、9日間だから仕方が無いというあきらめもある。肉体的には相当疲れた。かなりの強行軍だったと思う。昨日、今日は結構バテバテで朝起きるのがやっとだった。まあ良くがんばりましたという所だ。
精神的にはというともう今は完全に日本モードに切り換わっているが、成田線くらいでは結構強烈なトリップ感覚が残っていた。なんというか、いろいろなことに対する違和感というか・・・おしまい 今日本にいるということ、明日からもとの日常生活に戻るということ、今日の朝まで中国にいたということ、10日程前にはやっぱり日本にいたということ・・・。今では日本にいるのが当然で中国はもはや過去の記憶のようになっている。なかなか適応力が強い方だと思う。そういう違和感=トリップ感覚の深さもインドと中国の位置付けの違いに影響しているのだろう。
なんだかとりとめのない文になってしまったが今書けるのはその程度だ。1、2ヶ月たったらごちゃごちゃとした記憶・感覚は消えて、もう少しはしっかりしたものがつかめるかもしれない。その時にまた何か書いてみようと思う。



Fin